◆近衛龍春『毛利は残った』を読み解く



★要旨



・毛利120万石の当主、毛利輝元は、

徳川家康と友好の誓書を交わしながらも、

反家康の武将たちに担がれ、

あろうことか西軍の総大将になってしまった。



・だが、自ら出陣することもなく、

家康率いる東軍に関ヶ原の戦いで敗れ、

総大将の責任を問われる。



・その敗軍の将を待ち受けていたのは、

苛烈ともいえる減封処分だった。

4分の1に減封された毛利は、

破綻寸前に追い込まれる。



・毛利家は、中国8ヶ国で120万石とされたが、

豊臣秀吉が太閤検地と称して行った厳しい実地検地を

毛利領すべてには実施していない。



・本能寺の変後に

追撃をかけなかったことへの配慮と、

小早川隆景への遠慮のため、

差し出し検地を認めていたので、

実質石高は200万石を優に超える。



・伊賀、甲賀の忍びを多数抱える家康は、

上方から関東への連絡網を整備しているので、

5日ほどで報せが届けられるが、

毛利輝元にとっては東国は敵地でもあるので、

関ヶ原の戦い前後、情報をつかむのが遅かった。



・毛利家は、「世鬼衆」という、

忍びの集団を配下に置くが、

このころの活躍はあまりない。



・9月、田辺城で籠城していた細川幽斎は、

後陽成天皇の勅使らの説得を受けて開城した。

天皇が戦の仲介を行った理由は、

「幽斎が討死すれば、本朝の神道の奥義、和歌の秘密が永く絶え、

神国の掟も虚しくなる。古今の伝授を禁裏に残さねばならぬ」

と心を痛められたからだという。



・西軍総大将だった毛利輝元は、

安芸、備後、備中、出雲、隠岐、石見の

6ヶ国を没収された。

残ったのは、周防、長門の2ヶ国であった。

石高は、約29万石。



・輝元は、家臣に頭を下げた。


「まずは、生きる最低の暮らしを確保し、

そこから積み上げて這い上がるしかない」



・徳川家は、関ヶ原後、さまざまな嫌がらせをした。

輝元は、逆に反発心が湧いた。


「毛利を潰さんとの画策であろうが、

こうなれば、絶対に生き残ってみせる。

石にかじりついても絶対に毛利は潰さん。

それが、儂にできる唯一の戦いじゃ。

この戦いには決して負けぬ。

追い詰められた武士の意地と力を見せつけてくれる」



・存続するためには、

どんな苦労も犠牲も厭わない。

毛利輝元は、両目を見開き、固く決意した。



・輝元は、江戸下りに伴い、雄大な富士山を見た。

(日本一の山を見ぬ武家は、天下を取れぬと申すが、まことかの)



・源頼朝、足利尊氏、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、

みな東海から関東出身者ばかりで、

間近ではなくとも富士山を目にしてきた者ばかり。

富士信仰というものがあるが、

なるほど肖りたい気持は判らないでもない。

(西の者は東の者に比べて、しぶとさがないのかの)



・天竜川、大井川、富士川、

箱根の難所を通らなければならない。

(家康は、毎度、かような苦労をおくびにも出さずに

上洛していたのか)

改めて、家康の胆力のようなものを

思い知らされたような気がした。



・僧侶、玄策西堂は、輝元に伝えた。


「これよりは何事も長く生きた方が勝ちでしょう。

亡き毛利元就公は、生きるためには必死で、

しぶとく、ときには阿漕に、ときには臆病に、

あるいは慎重に、それでいて腰を上げれば、

自ら先に立って、やれることは全てなされました。

お屋形様は嫡孫、なんのできぬことがございましょうか」




★コメント

毛利輝元と毛利家の執念を垣間見た。

学びたい。