◆岡倉古志郎『死の商人。戦争と兵器の歴史』を読む
★要旨
・J・P・モルガンが
インチキなカービン銃を種にボロもうけをした数年後、
日本でも鉄砲商売で大もうけをした男がいた。
その名を大倉喜八郎といい、
後の大倉財閥の始祖である。
・18歳の喜八郎は麻布飯倉の鰹節屋に奉公、
三年後には主人から養子に見こまれたがこれをことわり、
21歳のとき上野で塩物店をひらいて独立した。
・明治維新の動乱の時機に銃砲店をひらいたことが、
「死の商人」としての大倉喜八郎の成功のきっかけになったのである。
・戦争をするには武器が必要だ。
それを調達するのは、
昔から「死の商人」と言われる武器商人だった。
・彼らは戦争の危機を煽り、国防の必要を訴えるとともに、
「愛国者」として政治家に取り入った。
・名作『風と共に去りぬ』に出てくる、
バトラーは、「金もうけ」の点にかけても、
徹底した「哲学」と「モラル」の持ちぬしである。
→「俺は、金もうけのためなら、北軍、南軍、
どっちにでもいい、
うんと金をはずむ方に武器弾薬を売るのだ」。
・この「哲学」をたくましく実践することによって、バトラーのふところは、
戦争とともに肥ってきたのであった。
・バトラーの物差しは「資本主義」の物差しだったが、
アトランタ市の人々のそれは「封建主義」のそれだった。
そして、南北戦争を境界線にして、時代は、
「封建主義」の没落、
「資本主義」の発展を容赦なく切りひらきつつあったからである。
・「死の商人」としてのバトラーの「哲学」は、
「資本主義」の物差しにピッタリかなっていたのである。
・南北戦争中活躍した数百人の「バトラーたち」が
大手をふって利益をむさぼる絶好の判例になったことはいうまでもない。
・南北戦争の最中、怪しげな武器をつくって売ったり、
ヨーロッパから中古の武器を輸入したりして
暴利を収めた「死の商人」はかなりの数にのぼった。
・これらの「死の商人」どもが政府の官吏、軍人をだましたり、
買収したりして、わが物顔にふるまったことは、
モルガンを「裁判」した委員会のいきさつからも分る。
・だから、モルガン事件の判決に腹を立てたリンカーンは叫んだ、
「こういう貪慾なビジネスマンどもは、その悪魔のような頭のどまん中をブチ抜いてやる必要がある!」。
・だが、かれらは頭をブチ抜かれるどころか、
ますます肥えふとって戦争から抜け出した。
・モルガン財閥、デュポン財閥など現代アメリカの独占資本は、
実に、この戦争のなかから芽生えたものであった。
★コメント
あらためて、
戦争と軍需の歴史の凄みを感じた。