◆松永多佳倫『92歳、広岡達朗の正体』を読み解く



★要旨



・長嶋と広岡は、

プロ野球屈指の黄金三遊間コンビとして

ファンを魅了していくことになる。



・広岡はヤクルトで、

初めて務めた監督業で結果を残せたことももちろん嬉しかったが、

負け犬根性が染みついた選手たちが意識を変えて

成長してくれたことに大きな喜びを感じた。 

「根気強く教えれば、人は必ず成長する」



 広島で得た教訓を、監督として見事に実践できたからだ。



・広岡は監督時代に指導した選手のなかから、

後の監督経験者を16人も輩出している

(田淵幸一、東尾修、森繁和、石毛宏典、渡辺久信、

工藤公康、辻発彦、秋山幸二、伊東勤、田辺徳雄、

大久保博元、若松勉、大矢明彦、尾花髙夫、

田尾安志、マニエル)。



・監督として、

70年代に史上最弱球団と揶揄されたヤクルトスワローズに初の日本一の栄冠をもたらした。



・80年代には西武ライオンズ黄金期の礎を作り上げた。

これらは紛れもなく快挙であり、広岡の勲章だ。

広岡がこの時期に実践した戦術、指導法、

選手管理の在り方は、

間違いなく日本プロ野球界に転換期をもたらした。 



・ただ残念なことに、

広岡が今の球界に多大な影響を与えたことは

市井にあまり知られていない。



・広岡はあまりにも

実直かつ妥協を許さぬ姿勢によって球界の嫌われ者として名を轟かせたのも事実だ。 



・現役時代は野球の神様と

呼ばれた川上哲治とも衝突した。

監督時代は選手を厳しく律する姿勢から

選手・フロントとも衝突した。



・1985年、

監督の広岡達朗はグラウンドに立ったまま、

凛とした佇まいで鋭い目線を周囲に投げかけていた。



・広岡は、まさに不退転の覚悟でこのキャンプに取り組んでいる。 

この年からバッティングコーチとして、

70年代前半の阪急ブレーブスに不動の四番打者として君臨した長池徳二を招聘。

プロ入り4年目の秋山幸二を、

なんとしても一人前のホームランバッターとして育てるためだ。 



・長池と秋山は、

二人三脚で泥だらけになって練習を重ねた。

あまりの猛練習ぶりに広岡が

「無理しすぎるなよ」

と声をかけると、

「若いうちにやらないとダメなんで。

鉄は熱いうちに打て、ですから」

と長池はほとばしる汗を垂らしながら答える。 



「よしわかった、やれやれ」 

自分の目に狂いはなかった。広岡は、

この熱血指導に長池招聘の成功を確信した。



★コメント

まだまだ広岡さんから

学ぶことは沢山ある。