◆保阪正康『昭和史七つの謎2』を読む
★要旨
・昭和50年代に、
ある90歳を超えていた将官に取材した。
その将官が、私自身のことを実によく知っていて驚いた。
→
彼は言った。
「初めて会う人物のことは調べるよ。
まあ私も昔は陸軍中野学校に関係したこともあったからな」
→
しかも、
「彼らの調査網は、今も生きている」
と聞かされて、この社会には、
「情報流通の地下ネットワーク」
があるのだなと実感した。
・陸軍中野学校出身者は、
口が固いうえに、仲間意識が強い。
・ある中野学校出身者は、
何人かが集まり、
「占領軍監視地下組織計画書」
を練っていた。
ポツダム宣言の受諾後のこと。
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米軍の占領が横暴なら、
武装抵抗を続けるつもりだったとのこと。
・情報を軽視する国家は、
独善と主観主義のワナに落ち、
情報のもつ冷徹さによって、
壊滅させられるというのが教訓である。
・吉田茂の歴史観の骨格は、
次の2点に見事に集約されている。
1、維新の大業を成し遂げた先達の描いた国家戦略は正しい。
2、昭和は、その国家戦略を歪めて「一時的な変調」を来した。
・かつて外務省の出世コースは、
ロンドン、パリ、ワシントンなど
欧米の主要都市を歩くのだが、
吉田茂は、そのコースではなく
「裏街道」だったと自らも回想している。
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裏街道とは、中国勤務をさすが、
それも領事館勤務から始まった。
めぐまれたコースではなかった。
・少年期の環境に加えて、
大日本帝国の骨格を支える牧野伸顕との交流で、
吉田には、次第に強い使命感が生まれた。
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それは天皇を支える感情、
天皇を君主と仰ぐ心情である。
・民主主義の制度を守るためには、
なんらかの道徳規範が必要であり、
それが王室であり、皇室だということになる。
・いわゆるA級戦犯で、最後まで生き残ったのは、
東條内閣の閣僚、企画院総裁だった鈴木貞一である。
鈴木は、生粋の職業軍人だが、政治活動もした。
・講和条約の発効後、
戦犯たちの獄中生活は、放縦に流れた。
麻雀を持ち込み、酒を飲むなど気ままとなった。
・鈴木貞一は、
そういう生活態度とは一線を引いた。
重光葵の『巣鴨日記』には、
鈴木が毎朝経文を唱え、
自ら作った体操を大声を出しながら、
繰り返していたとある。
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そのあとは、
座禅と読書に時間を費やした。
・鈴木は、巣鴨プリズンを釈放になったあと、
代議士への勧めには応じず、
「電力の鬼」といわれた松永安左ェ門の主宰していた、
産業計画会議の委員をつとめて、
財界のシンクタンクのような役目を果たしていた。
松永は、自由主義経済を唱えていた。
★コメント
戦犯からの復活を成し遂げるには、
それなりの情報力と人間力が必要になる。
学びたい。