◆前間孝則『戦艦大和の遺産』を読み解く
★要旨
・西島亮二技術大佐は、
海軍始まって以来の「世紀の大事業」と呼ばれた、
「大和」の実質的な建造責任者だった。
・西島は、戦後、
ジャーナリズムに対して沈黙したが、
一千枚を超える未公開の『回想記録』を
残していたことがわかった。
・「大和」に関する文書や図面は、
ほとんどが焼却されたため、
『回想記録』はきわめて貴重な資料であった。
・「大和」を建造した呉海軍工廠は、
戦後、解体される予定であった。
しかし、巨大設備に目を付けたアメリカ資本のNBCが、
1950年、大和を作り上げた工員や技術者も含めて
そっくり借り受けた。
・すると、ただちに世界一のタンカーを
次々に建造していった。
工数も他の半分だった。
・未熟練の徴用工などが入ってこない時期の
太平洋戦争の直前に完成した「大和」は、
工員たちの水準がもっとも高かったころで、
「呉工廠の最高傑作」であった。
・「大和」に凝縮された英知や
技術的ノウハウは極めて密度が高く、
有形無形の遺産は、きわめて大きかった。
・技術分野における神髄ともいえる思考方法や
発想法、仕事の進め方や手法、
あるいは勘所の押さえ方や奥義といったものは、
人格と不可分であって、人を通して受け継がれ、
伝えられていくと認識している。
・それは決して、データベースやマニュアル、
コンピュータによっては、十分に伝えることはできない、
との認識を20年の技術者としての体験から
もち得ている。
・西島の一番弟子といわれるのが、
「造船界の異端児」真藤恒(しんどうひさし)である。
・真藤は、「海運王」ラドウィックと手を組み、
画期的な手法で数々の船舶を建造し、
戦後復興の先駆けとなった。
・80代半ばになった真藤は、
長年の経験と実績を知る、あちこちの造船所から
アドバイスを頼まれ、
各地を飛び回っていた。
そして、そんな視察について語るときの
真藤の表情がもっとも明るく、
楽しそうに見えた。
★コメント
今一度、戦艦大和について学びなおしたい。
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