◆岩井秀一郎『最後の参謀総長・梅津美治郎』を読む



★要旨



・1944年7月、

梅津美治郎は、陸軍参謀総長に就任する。

それは昭和天皇の意思でもあった。

それだけ昭和天皇の信頼が篤かったのだ。



・梅津は、1945年6月に軍状を上奏、

その内容に衝撃を受けた昭和天皇は終戦を決意した、

と言われる。



・陸軍大学校を首席で卒業したエリートでありながら、

陸軍の後始末ばかりさせられた男の

「最後の後始末」こそ、

ポツダム宣言および降伏文書調印に至る終戦への道である。



・梅津は、昭和19年(1944)7月に、

関東軍司令官から参謀総長になるのだが、

このとき、長男の美一に対して

「また後始末だよ」と嘆いたという。



・梅津は、これまでの歴史的な大事件に際し、

事が終わってからその処理を任されていた。

第一は、2・26事件。

事件後に陸軍次官となった梅津は、

実質的なトップとして陸軍大将らの予備役編入、

反乱軍将校の迅速な処分など、冷厳なまでの「粛軍」を行った。

その存在は、

「陸軍の梅津か、梅津の陸軍か」

とまで呼ばれるほどだった。



・第二は、ノモンハン事件。

ソ連軍との実質的な「戦争」に発展した軍事衝突後に

関東軍司令官となった梅津は、

頻繁な現地視察を行い、国境紛争を起こさせなかった。



・第三の後始末が、

ポツダム宣言受諾および終戦処理である。

太平洋戦争末期に参謀総長に就任した梅津は、

陸軍の代表として阿南惟幾陸軍大臣とともに

ポツダム宣言受諾に反対していたが、

昭和天皇の「聖断」が下るや、

いっさいの反抗を許さず、終戦に尽力した。



・梅津の風貌は、畏怖を感じさせるところがあり、

また「親分子分」のような派閥に類する

人間関係を作らなかった。



・1913年、成績優秀者に与えられる特典として、

ドイツに軍事研究へ行くこととなった。

梅津の欧州留学は、

一時帰国を除いて約8年の長期間にわたり、

ドイツを振り出しにデンマークやスイスなど、

各地で見聞を深めた。



・梅津は、5年におよぶ関東軍司令官在任中、

ついに1度も国境紛争を起こさせなかった。

歴史において「何かを行なった」功績は記録されやすいが、

「何かを起こさせなかった」ことは目立たず、

忘れられてしまうことが多い。

それも大きな功績である。



・梅津は関東軍を統御し、

まちがいを起こさせなかったことで

陸軍の期待に応えた。



・書き残すことなく、語ることも少なく、

自らの心の内を見せなかった、

帝国陸軍最後の参謀総長、梅津美治郎は、

彼らしく痕跡を消すようにして去ったのである。

1949年1月8日、帰らぬ人となった。



・「感情を表情に出さない」

「大事なことを話さない」

という梅津の性格は、

秘密裏に事を進めるには必須の資質である。



★コメント

まだまだ知らない軍人の歴史がある。

学びたい。


 

 

◆まぐまぐメルマガ『国際インテリジェンス機密ファイル』ご案内。

ご登録はこちら。


http://www.mag2.com/m/0000258752.html