◆渡辺延志『軍事機密費。GHQ特命捜査ファイル』を読み解く
副題→「GHQ特命捜査ファイル」
★要旨
・226事件当時の総理大臣、岡田啓介はこう回想した。
「皇道派とか統制派とか、やかましいことをいっても、
本当は陸軍の膨大な機密費の取り合いさ。
その頃の陸軍の機密費は100万円。
海軍は20万円くらいだったかな。
その機密費をどちらが握るかという派閥の争いだよ」
・1947年、ウィリアム・エドワーズは、
上司のフランク・タベナーから指示を受けた。
「来てもらったのはほかでもない。
君に調べてほしいことがある。
シークレット・ファンド(機密費)という資金が
日本政府にはあるのだが、その仕組みを調べてくれ。
日本の軍閥は、このシークレット・ファンドを悪用し
政治を思うままに動かしていたと睨んでいる。
その実態を明らかにしてくれ」
・タベナーは首席検察官ジョセフ・キーナンに次ぐ存在で、
アメリカ人検察官のまとめ役だった。
・ここからたどるのは、
日本の権力中枢における「シークレット・ファンド(機密費)」、
とりわけ軍事機密費の仕組みと使途の実態解明に挑んだ、
アメリカ人検察官による特命捜査の顛末である。
・日本に近代的な政治行政組織が誕生してから今日に至るまで、
おそらく連綿と存続してきたものと考えられる機密費は、
使途を明らかにしないことを最大の特性としている。
・厚いベールに覆われたその灰色の公金をめぐり、
東京裁判においては、政府や軍、
議会の要路にあった高官たちが次々と召喚、
尋問を受け、問い詰められていた。
・人的にも制度的にも、精神的にも日本の戦後社会は、
戦前からの強い連続性を保っていることが
大きな特徴である。
・1947年2月、
日本人としては大柄な男が
エドワーズのオフィスに姿を現した。
男は田中隆吉と名乗った。
当時、53歳。
・田中隆吉は、幼年学校、陸軍士官学校、
陸軍大学校とエリートコースを歩み、
大尉のときに参謀本部のシナ班に勤務。
関東軍参謀などを経験。
1940年に陸軍省兵務局長に昇進。
東条英機や武藤章と関係が悪くなり、更迭。
少将で退役した。
・田中は1946年1月、『敗因を衝く』を出版。
戦争を指導した政府や軍の高官たちを徹底的に糾弾した。
東京裁判がはじまると、
田中は検察側の証人として、何度も法廷に登場。
かつての上司や同僚たちを告発、叱責し、
「日本のユダ」「モンスター」などと
呼ばれるようになった。
・田中隆吉が機密費の受益者だったことは疑いない。
・田中の記憶力は抜群だったとISP(国際検察局)の検察官は舌を巻いた。
彼が特異だったのは、それをためらいもなく語ることだった。
・陸軍の要路での勤務を経験した田中隆吉は、
それでもIPSにとって代わる存在のない重要な情報提供者であった。
・ISPの求めに応じて情報を提供することは
田中の生業となっていた。
「証人業」との揶揄されている。
・占領軍の情報を求めたり、
働きかけを望んだりする日本人も田中のもとへ通っていた。
ロビイストとしても稀有な存在となっていた。
・度重なる証言や尋問を通して、
田中には独自の戦争物語が出来上がっていた。
ISPも信憑性や精度に疑問を抱いていたはずだが、
それでも田中に頼り続けた。
★コメント
今一度、占領時代の歴史をきちんと学びなおしたい。
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