◆大下英治『梶山季之。最後の無頼派作家』を読み解く
★要旨
・広島大学仏文科の3年生の秋、1966年、
わたしにとって、
人生を変える運命の出会いがあった。
作家梶山季之さんとの出会いであった。
・梶山さんは、広島大学の文化祭に、
講師として来校されたのである。
・梶山さんは壇上で、
なぜ週刊誌のトップ屋から作家になったか、
熟っぽく語り続けた。
「『週刊文春』のトップ屋をやっていて、
いくつかの凄いネタを掴んだが、
それをすべて活字にできるわけではなかった。
東海道新幹線の用地買収の背後に
実力のある自民党の政治家が利権あさりをしている
影がちらつく。
それを追った。
確実な裏を取れなかったが、ほぼ事実関係は掴めた。
編集長に、その政治家について実名で書きましょう、
と申し出た。が、承諾が得られない」
「事実は小説より奇なり、
というので週刊誌のトップ屋になったわけですが、
いくら真実でも、報道できないことがあまりに多いことを
思い知らされた。
それなら、事実を小説に託して書こう。
そう思い、作家として一本立ちしたわけです」
・自分の独立後、梶山さんをあらためて思った。
そのスーパー流行作家ぶりには
ただただ憧れるだけでなく驚異であった。
なんと月に千枚以上の量産を何年も続けていたのである。
その分野も、経済、政治、アウトロー、ポルノと幅広い。
・梶山季之は、企画会議の日の夜には、
グループを引き連れて、銀座のバーに飲みに出かけた。
銀座に飲みに行って、バカ話に興じながら、
ひとつの記者教育をするのだ。
・梶山は、ネタの仕込には力を入れた。
そのためには、まず第一に地方紙、業界紙、PR誌を丹念に読むことである。
業界紙やPR誌は、関係のない一般の人々には縁がなかったし、
地方紙は大都会の住民は読んでいないからである。
・次に、情報提供者をつくっておく必要がある。
これは業界紙の記者などと
バーで飲みながら話すことである。
・夜はもっぱら、業界紙の記者だの、
各団体の事務局員だの、情報屋と呼ばれる人々と、
新宿あたりで飲んでいた。
・西洋の格言に、
「2杯目のハイボールから特ダネが生まれる」
というのがある。
・実際に、情報源をもつということは、大切なのだ。
これは、と思った人物と、日ごろ付き合っておけばこそ、
特ダネが飛び込んでくるのである。
★コメント
取材力とは何か、情報力とは何かを学んだ。