◆清水俊雄『ジョージ・ケナン回顧録』を読み解く



ジョージ・ケナン、著。

清水俊雄、訳。



★要旨



・解説。

ジョージ・ケナンは、1904年生まれ。

アメリカの外交官、政治学者、歴史家なり。

プリンストン大学を卒業後、1925年に国務省へ入省。

戦後、マーシャル国務長官に抜擢され、政策企画部の本部長を務めた。

1947年から48年、「ソ連封じ込め」を主柱とする冷戦計画を作成した。



・私は、文学が好きで、教授たちの熱心な指導のおかげで、

英文学の古典の背景を理解することができた。



・正規のロシア語予備訓練のための赴任地は、エストニアのタリンで、

私はそこの副領事になった。



・ここで時間を見つけてロシア語を真剣に勉強しはじめた。

私の教師は、貧しいウクライナ人であった。



・ロシア語は、豊かで表現力に富み、音楽的で、

時には優しく、時には荒々しく、狂暴で、

時には古典的な厳しさがある。



・私は、そのロシア語の魅力にとりつかれ、

それ以後、私を離さないどころか、

後日の苦しい試練の時代に不思議にも

力と確信の尽きない源泉となってくれたのであった。



・1929年、ベルリン大学に入って、

ロシアに関する総合研究をはじめた。

ロシア史を学び、ロシア語とロシア文学を個人教師について勉強した。



・個人教師の多くは、教養あるロシア人亡命者で、

私は彼らと会話し、ロシア古典や

クリュチェスキーの有名なロシア史講義などからの文章を

何時間もかかって声高く朗読して、聞いてもらった。



・それはロシア語音節のアクセントの秘密を会得するためであった。



・1931年の秋から1933年の秋までの2年間、

私が勤務していたリガのアメリカ公使館ロシア課は、

まだとるに足らない調査班にすぎなかった。



・アメリカはロシア本土に外交代表部をもっていなかったので、

このロシア課がソビエトの定期刊行物や、その他の出版物を受け取り、

それを読んで、合衆国政府にソビエト連邦の種々の情勢、

とくに経済情勢についてできるだけ詳しい報告を送った。



・疑い深いソビエト当局は、

すぐにこの小規模な調査部を恐ろしいスパイ組織だと決め込んだ。

私たちは額面通りの仕事を地道にやっていただけであった。

秘密の手先を使っていなかったし、

またその意図ももっていなかった。



・相手が大国なら、正規な方法で入手できる情報を

慎重に学術的に分析すれば、スパイ情報の高等工作よりも

はるかに役立つものが得られるということを、

私たちは経験から知っていた。



・リガで私が特に命じられた仕事は、経済情勢の報告であった。

この仕事に私は興味を持ち、没頭した。

私の熱の入れ方には、国務省の暇をもてあましていた同僚も

苦笑していたことだろう。



・それでも、ソビエト経済、ロシア経済地理の研究が

次第に進んできたことが自分でもわかった。



・しかし、経済調査は、孤独な仕事であった。

長い夜の時間やウィークエンドを、私は自分が計画していた、

アントン・チェーホフの伝記の資料集めに当てていた。



・伝記を書く準備のため、私はチェーホフ全集30巻全部、

チェーホフの個性味豊かな書簡集の分厚い6巻、

その他多くの関連する回想録などを通読した。



・この膨大なチェーホフ関係文献ほど革命以前の

ロシアの雰囲気をあらわすにもってこいの資料はないだろう。



★コメント

ジョージ・ケナンの情報収集力と分析手法を学べる。

真似したい。