◆河内孝『血の政治。青嵐会という物語』を読み解く
★要旨
・彼らは、血判で契りを交わし、
武道館で決起集会を行い、全国紙に意見広告を出したのである。
・いつも口角泡を飛ばし、胸ぐらをつかみ合い、
灰皿や瓶を投げつけ、
野蛮な極右とメディアに酷評されたのだった。
・1970年代半ば、
戦後政治史上未曽有の熱さと厚かましさで、
一躍脚光を浴びたのが、政治集団「青嵐会」なり。
・記憶に残る青嵐会の人々の印象を一言でいえば、
「日常的躁状態」であった。
誇張ではなく、3メートル先から熱気を感じた。
・語ることすべてが国家の大事、
といわんばかり、額に汗をにじませて、
口角泡を飛ばしていたのだった。
机を叩き、胸ぐらをつかみ合うのが日常だった。
・「ああいうのを見て、いちいち驚いていたら、つとまらんよ。
まあ、子熊がじゃれあっている思えばいい」
→青嵐会を担当することになったとき、
先輩からの引き継ぎは、これだけだった。
・批判記事を書けば、
受話器が壊れるような大声で罵声をくらった。
しかし、まずその晩には、飲み屋からお誘いの声がかかったのである。
・江藤拓は、15歳の誕生日に、
「オレの子は、この日以降、いつでも腹を切る覚悟がなくてはならん」
と、父・江藤隆美から申し渡された。
烏帽子、直垂姿で臨んだ宮崎神社での元服式である。
・熱さとは、「人間くささ」なり。
・中川一郎未亡人の貞子さんが、
こんな話をしてくれた。
「あの人が政治家になってからというもの、
毎日が震度5みたいな日々でしたね。
誰もが人間をむき出しにして、ドタン、バタンと、
激しくぶつかりあっていた」
「そこにいくと今の方々は、主人たちより頭もいいし、
勉強もするけれど、まあ迫力というか、熱さはないわね」
・「俺には日本一の後援会組織がある。
だから誰にも遠慮しないで、言いたいことが言える」
が、中川一郎の口癖だった。
★コメント
現代に足りないものが何か、気づかせてくれる。