◆白石仁章『戦争と諜報外交。杉原千畝たちの時代』を読み解く(その3)



★要旨



・1939年、杉原千畝に、

リトアニアのカナウスへの赴任が命ぜられた。



・杉原のリトアニア派遣は、

ノモンハン事件解決に向けての情報収集、

すなわち対ソ情報収集を主な目的としていたのであった。



・バルト三国のなかでリトアニアは最南端に位置して、

ポーランドと国境を接している。



・第二次世界大戦の勃発により、

リトアニアは最初の戦場となったポーランドの隣国、

そしてポーランドがドイツ・ソ連両国により分割されてからは、

旧ポーランドのドイツ支配地域、ソ連支配地域と接することとなった。



・そして、見落としてはいけない情報収集源が、

ポーランドから逃れてくる難民たちであった。

彼らは、一人一人が戦争の惨劇の目撃者であるのだ。



・ドイツとソ連の間近に存在する中立国、リトアニアには、

難民だけでなく、各国のインテリジェンス・オフィサーが

集まってきた。



・ポーランドと日本の間には、伝統的な友好関係が存在した。



・ロシア革命のさなか、

シベリアに流刑されていたポーランド人は、

反乱を恐れるロシア人たちによって多数殺害され、

その結果多くの孤児が命の危険さらされ、

救援を求められた日本は3度にわたる救援活動の結果、

765名を救出し、無事ポーランド本国に送った。



・彼らは日本に滞在した思い出を大切にして育った。

これらの事実はポーランド人の間では広く知られていた。

そのため、独立後のポーランドは

ソ連側が用いている暗号解読のノウハウを伝え、

また連盟脱退後の日本にヨーロッパ情勢に関する情報を伝え続けた。



・二国間関係が良好であっても、

接触すべき相手が信頼できる人物であるか否か、

ということこそ重要である。



・祖国を占領されたポーランド人たちは、

かつて杉原が満州で接触した白系露人たちと同様、

政治的に弱い立場にあった。



・杉原のインテリジェンス・オフィサーとしての最大の長所、

政治的に弱い立場の者との間に協力関係を築く対象として、

ポーランド人とは利害関係がまさに一致したのであった。



・ポーランドの二人の軍人、ヤクビャニェツ大尉と

ダシュキェヴィチ中尉が杉原に接触してきた。

彼らの背後にはポーランド情報組織の大物である、

リビコフスキー少佐がいた。



・語学の天才杉原も、ポーランド語までは解さなかったが、

ポーランド人は彼ら民族がたどった複雑の歴史のため、

多くの者がロシア語ないしはドイツ語を解していた。

2人ともロシア語を話せたので、

杉原との会話には苦労しなかった。



・本書の目的は、ビザ発給問題について、

明らかにすることではなく、

杉原が独ソ開戦情報をつかむに至る背景を明らかにすることだ。

だからこそ、杉原が送った報告書の情報群の断片であっても、

検証の対象としなければならない。



・最初に紹介する資料は、

ポーランドが領有していたが、ポーランド分割の結果、

ソ連領に編入されたベラルーシの歴史、

地理、気象、産業などに関してまとめた、

杉原の報告書である。



・手書きの日本語で書かれ、

約50枚にわたってまとめられたものだ。

一見この報告書は単なる公開情報をまとめただけのものに

過ぎないようにも見え、インテリジェンスの観点からの

重要性は低いとの誤解を招きかねない。



・しかし、この報告書をよく確認すると、

情報源の大部分がポーランド政府の統計だというのだ。

リトアニアでポーランド政府が採用した統計データを

入手することは容易ではなかったことから考えると、

先のヤクビャニェツ大尉たちが協力したからこそ、

入手できた情報であろう。



・ここで考えなければならないのは、

ベラルーシがポーランドから奪われ、ソ連に編入された以上、

その分ソ連の国力が増強されたということである。

だからこそ、ベラルーシの統計情報は、

ソ連の国力増強の情報でもあるのだ。

そう考えれば、この情報の重要性がわかるであろう。



・この情報を送ったのは、

1940年2月、杉原がカナウスに着任して

およそ半年後であったが、

彼は既にしっかりとした情報網を確立していたのであった。



★コメント

細かいエピソードから、

情報収集と分析のノウハウを学べる。