◆白石仁章『戦争と諜報外交。杉原千畝たちの時代』を読み解く




★要旨



・杉原千畝を「偉大なヒューマニスト」

と評価することに異論はない。



・しかし、その陰で見落とされがちであるが、

彼が同時代の日本人のために命がけで入手した情報の意義は大きく、

そこに込められた杉原のメッセージを見落としては、

泉下の杉原に申し訳ない。



・杉原が命懸けで得た情報とは、

在ケーニヒスベルク総領事館で総領事代理を務めていた、

1941年の5月9日に送った電報第8号に記された、

ドイツ軍がソ連侵攻の準備を極秘に進めているという情報である。



・この電報に記された情報こそ、

内容面から考えても、独自性から考えてもまさに重要情報であった。



・内容面に関しては、

ドイツ軍がソ連侵攻を準備しているとの情報は、

日本外交の根幹を揺るがす、サプライズ情報であった。



・ヒトラーは密かに対ソ侵攻の「バルバロッサ作戦」

と呼ばれる計画の立案を命じたが、

立案にあたって日本側には絶対に情報がもれないよう、

厳しく言いつけていた。



・ヒトラーのシナリオどおりに事態は推移したが、

日本が独自の道を歩む可能性をもたらしたのが杉原情報であった。

日本に無通告でソ連を攻撃したことは、

端的に言って日本への裏切りに他ならない。



・杉原情報は、日本がヒトラーの呪縛から逃れ、

日本外交本来の道に立ち戻る可能性を秘めていたのである。



・叩き上げの情報専門家、杉原千畝は、

1900年岐阜県に生まれた。

かれは学費にこと欠く苦学生だった。



・たまたま目にしたのが外務省留学生試験の募集記事であった。

語学の勉強を続けながら、生活も安定する道が見えたのだ。



・杉原は中国の満州北部に位置するハルビンに向かった。

同地には、革命以前から多数のロシア人が暮らしていたので、

ロシア語を学ぶには好適な地であった。



・ハルビンで杉原は、熱心にロシア語を学び、

のちにはロシア人と比べても

遜色がないほどのロシア語の達人へと成長していった。



・杉原はロシア語以外にも、英語はもちろん、

ドイツ語、フランス語、中国語も自由に操る「語学の才能」に恵まれていた。

しかし杉原にとって、語学は補助的な武器であり、

外交官としての主力兵器は、

「情報収集能力」であった。



・杉原の場合には幸運にも若き日の彼の活動を明らかにする、

公的文書が残っているのだ。

1937年、在ソ連大使館へ赴任することを命ぜられたが、

ソ連が入国を拒絶したのだ。

これに対して、杉原が外務省に提出した弁明のための

報告書が残っているのだ。



・その報告書には、

入省以来、彼が携わった業務が時系列に簡潔にまとめてあるのだ。

当初は、日本人とロシア人の間に起った揉め事の仲介に始まり、

日本への渡航を希望するソ連人の身元調査、

政治情報の収集、

さらには共産主義系の新聞記者への工作と、

20代の杉原は早くも情報関係の任務に就いていた。



・インテリジェンス活動の重要な要素の一つに、

公開情報の収集・選別がある。

公開されている情報、たとえば新聞記事など

容易に入手可能であるが玉石混淆な情報のなかから、

有用な情報を選び出す能力も、

インテリジェンスオフィサーに求められる才能である。

この点でも若き日の杉原は、優れた能力を発揮している。



・ソ連の経済状況を多角的に

分析した調書「ソビエト連邦国民経済大観」がそれである。

1927年、杉原が弱冠27歳の時にまとめた報告書だが、

非常に充実した内容で、

外務省では活字印刷・製本して省内外に配布したほどであった。



★コメント

どんな境遇に生まれても、努力によって道は開けると知った。

 

 

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