◆童門冬二『徳川三代諜報戦』を読み解く



※要旨


・本能寺の変が起きたとき、徳川家康は堺にいて、多くの手勢がいなかった。

家康最大の危難といわれる伊賀越えの供をしたのは、

伊賀者200人から300人、甲賀者100人といわれている。

手配したのは服部半蔵。



・家康の分断支配のもっともたるものは、日本の全大名を「譜代大名」と「外様大名」に分けたことにある。



・伊賀者・甲賀者を総括的に束ねているのが、伊賀国と伊勢八郡の領主である藤堂高虎であった。



・藤堂高虎は近江に生まれ、最初近隣の土豪に仕え、

やがて浅井長政、織田信澄、羽柴秀長、豊臣秀吉に仕えた。

高虎は「築城の名手」といわれている。



・関が原の合戦は、徳川家康にとって「生涯最大の諜報戦」であった。

そのとき最も役に立ったのが藤堂高虎であった。



・忍びの術とは畢竟、「人の心を読む」ということが主体となる。



・関東の北条家の諜報組織を束ねを務めていたのが、風魔小太郎であった。



・家康の重臣・大久保忠隣が推薦した大久保長安は、民政に堪能だけでなく、

鉱山の開発、都市計画、道路建設などにも特別な技能をもっていた。

また情報活動にも能力を発揮した。

彼は、徳川家康の財テク関係で多くの実績を上げた。



・徳川家康は人質時代に駿府で、太原雪斎から徹底的に漢籍を叩き込まれている。

家康の生涯の座右の書は、『吾妻鏡』、『貞観政要』、『孟子』であったといわれる。



・旧北条勢力がはびこっている関東の地にあって、

家康が一番必要としているのはやはり情報の収集と諜報活動であった。



・徳川300年の間、「諜報戦と諜者」はいつも死に絶えることなく、

地下水脈として、脈々として流れていたといえる。




※コメント

戦国時代を生き残った大名たちは、情報活動を重視した。

その情報をうまく活用し、諜報に秀でた者たちが天下で重要な地位を占めた。

これは現代のビジネス、政治にもおおいに参考になることだ。