◆杉本貴司『ホンダジェット誕生物語、大空に賭けた男たち』を読み解く


 



※要旨



 



・「家族にも極秘」を指示され、

和光研究所の一室で研究が始まってから約30年。

実際に本物の翼やエンジンを作った経験は皆無というエンジニアたちが、

専門書を頼りに開発を始めた。まさに手探りだった。

ホンダはなぜ空を目指したのか。高い壁をどう乗り越えたのか。



・本田宗一郎が生涯の夢として参入を宣言してから半世紀。

二輪車メーカーとして出発した

ホンダがジェット機参入という壮大な野望を実現させた過程をひもとく。



・青山の本社から「金食い虫」と陰口をたたかれながらも、

ついにホンダジェットを創り上げた若きエンジニアたちの苦闘を克明に描く。



・窪田は入社当初、二輪車や四輪車のターボの研究に没頭していた。

このころに、大学の先輩にあたる井上和雄に目をかけられた。

後にホンダのジェット機関発陣の初代リーダーになる人物である。



・そうは言ってもこのころはまだ、

事業化を前提にしたものではなく、

ホンダ社内ではあくまで基礎研究のひとつという程度の位置付けだった。



・実際、研究チームには窪田のように大学で

航空工学を学んだエンジニアもいるにはいたが、

多くが化学や機械などを専門にしてきた門外漢だ。



・窪田らがあてがわれたのが、

東西に長く延びる和光研究所(埼玉県和光市)の西の端。

同じ建物で働く他の研究員には、

ジェット機を研究していることは知らされていない。

それどころか、

このプロジェクトのメンバーには

家族にさえ極秘を貫くよう徹底されていた。



・10年ほどたってホンダがジェット機の開発計画を公表し、

おおっぴらに研究できるようになってからも、

窪田たちの「窓際族」的な社内での立場は変わらなかった。



・「金食い虫」。

「しょせん、道楽でやってることだろ」。

生粋の技術者集団である和光研究所ではともかく、

東京・青山の本社からは、

心ない陰口が聞こえてくることもしばしばだった。



・泉だけではない。窪田も含めて全員が手探りだった。

窓際の素人集団が約30年をかけて

大空に飛ばした小さな飛行機。

それがホンダジェットだ。



・ホッダはなぜ空を目指したのか。

どうやって高い壁を乗り越えてみせたのか。

本書は二輪車メーカーとして出発したホンダが、

ジェット機参入という壮大な野望を実現させた過程をひもといていく。

そこにあったのは、

大企業に身を置きながら組織の歯車にとどまらず、

大空への夢を描き続けた男たちの奮闘の物語だ。



・そのうちに、藤野はトルベの自宅に寝泊まりするようになった。



・床はコンクリが打ちっぱなしで、

大きな木のテーブルが置いてある。

その回りを本棚が囲み、

ロッキード時代からの資料や文書がファイルにとじられて整然と並べられている。



・独身のトルベは夕食を近くの

レストランで済ませることが多かった。

その時間は、藤野にとってまさにトルベ塾だった。

ロッキードの飛行機作りの流儀を貪欲に学んでいった。



・トルベも藤野を

「東洋から来た最後の弟子」と認めるようになったのだろう。

作業場の地下室には几帳面にファイルされた膨大な資料が並んでいたが、

ことあるごとにその中から資料を取り出して藤野に説明する。 


「トルベさん、これってコンフィデンシャル(極秘)って書いてますけど、いいんですか?」


愛弟子に対して、トルベはお構いなしだった。



・話は設計図にとどまらない。

飛行機ならではのマネジメントの仕方から、

トルベが出会ってきた凄腕のエンジニア、

果ては航空機事故の裁判に関する話まで。

師弟の話は途切れることがなかった。



・理論だけでなく経験に裏付けされたトルベの話を、

藤野は漏らすことなく学ぼうと思った。

そんな藤野に、トルベは惜しげもなく自らの経験を伝えていった。



・ホッダは、松明を自分の手でかかげていく企業である。

たとえ、小さな松明であろうと、

自分で作って自分たちでもって、

みんなの方角と違ったところが何か所かありながら進んでいく、

これがホンダである。

(藤沢武夫)



・このころ、ホンダの経営の一切を預かっていた藤沢武夫も、

急成長してきたホンダをどう未来に残すか、

その形を作ろうと思索を深めていた。

昭和29年危機を乗り切った後、

東京・八重洲の本社とは別に銀座の越後屋ビルの2階に

20坪ほどの個人事務所を借りて、

普段はそちらに引き寵もる生活を始めていた。



・藤沢は日本の有力企業の有価証券報告書を読みあさったが、

愛読したのは第2次世界大戦で

英国を勝利に導いた首相、ウィンストン・チャーチルの回顧録だった。

そこから何を学んだのか。藤沢は著書で、


「せっぱ詰まった時、どうしてゆとりのある考えになれるのだろうか」


といったことを例に挙げているが、

最大の命題は宗一郎のカリスマ性に頼らずとも

成長できるホンダの姿を描くことにあった。



・藤沢は10年以上をかけて根気強く実行に移していく。

最初に打ち出したのが研究所の独立という

世界の自動車メーカーでも例のない試みだった。

研究所独立のヒントはチャーチルの回顧録ではなく、

夏目漱石の『吾輩は猫である』にあった。



・数カ月前のことだった。自宅で床についた藤野の頭に、

それまで悶々と思い描いていた新型ビジネスジェット機の姿がパッと浮かんだ。

なぜか分からないが、妙にハッキリと飛行機の形が見えてくる。



・<翼の下が無理なら上に付けてみたらどうだろうか>

こんな発想が浮かんだのは、

この時から2年前の95年のことだった。

引っ越しで本棚を整理していた時に、

昔に買ったまま読んでいなかった1冊の本を偶然手に取った。

なんとなく斜め読みするうちに、

ぐいぐいと引き込まれていった。

それは流体力学では古典とも言える本だった。



・藤野が飛行機設計のイロハをトルベから学んだころは、

すでにコンピューターが不可欠になっていたが、

プラントルが講義した1930年代は

全てが紙と鉛筆の計算によるものだ。

それがかえって新鮮に思えた。



・優れた科学者に欠かせない要素として

よく語られるのが「セレンディピティー」という言葉だ。



・藤野の発見は古典本との偶然の出会いによるものだが、

航空エンジニアとしてのセレンディピティが

導いたものではないだろうか。


 


 


※コメント

ホンダジェットに関する圧倒的な取材力に驚く。

このストーリーは、

杉本氏が書いたからこそ、

その情熱が伝わってくる。


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