◆小林吉弥『竹下登・不敗の人間収攬術』を読み解く



※要旨



・総理大臣、竹下登には黙って「落とすところに落とす」凄みがあった。

竹下のリーダーとしての凄いところである。

初めから手の内を明かさず、しかし一度、決断したものは、多少、紆余曲折があり、

時間がかかっても、必ず当初の狙い通りの結論に至らせる。



・佐藤栄作総理は、第一次佐藤政権において、官房長官に側近中の側近、橋本登美三郎を起用。

橋本は補佐役としての官房副長官に、迷うことなく佐藤に竹下登を推薦した。



・官房副長官というポスト、政治家の出世への登竜門と言ってよい。

常に首相官邸を足場に総理のそばにいることが多いことから、内外の第一級情報を耳にすることもできる。

政治の動きが手に取るようにわかる。

一方で、重要法案をいかに通すかで与野党間の根回しに動かねばならない。

政治家として自分に磨きをかけたければ、格好なポストと言ってよい。



・なにしろ、官房長官の橋本は細かいことには大雑把な性格でほとんど動かず、

すべからくが「竹下クン、キミにすべて任せたから大いにやってくれ」といった具合で、

竹下官房副長官は与野党間の根回しなど一人、目が回るほどの日々を送っていたのだった。



・相手の言い分をとことん聞くところからすべてが始まる。

人生は「回り道」「無駄な時間」からこそ学べる。



・竹下は、国会対策副委員長を長く務めた。

竹下の国対手法、すなわち与野党間の調整手法は、

「とことん相手の言い分を聞き、妥協点を見出す」という、先の官房副長官同様の手法であった。



・今日でも自民党の国対関係者の「教典」ともなっている、3つの「竹下訓」がある。


1.靴のかかとをすり減らして国会内を歩き回ること。

すなわち、党内、野党とのヒューマン・リレーション(人間関係)に徹する。


2.政策性を没却させること。

すなわち、まずこちらの理屈は忘れ、野党の言い分をトコトン聞く。

バカバカしいと思っても、じっと聞く。

そこから、問題の妥協点、法案の修正はおのずから浮かび上がってくる。


3.自分より年長者、当選回数の上の人に会うときは、必ず自分から足を運ぶこと。


→竹下国対副委員長は、これを愚直に実行したということだった。



・竹下の盟友、金丸信(副総理)も国対上手と言われた。


金丸の4つの原則は次の通り。


1.筋を通す。

2.人のために汗を流す。

3.人間関係を大切にする。

4.困る相談に乗る。



・竹下は「副」「代理」の下積み生活の連続だったが、確実にそのポストを自分の栄養にした。



・自民党のベテラン議員は、竹下の下積み&閑職時代についてこう言っている。


「全国組織委員長では、2年間全国を歩き回ったことで、自民党の都道府県連に自分の名前を売り込んだ。

これが自然と人脈をつくっていったとともに、選挙のノウハウも覚えた。

選挙制度調査会長でさらに選挙のツボを完全把握。

この2つの閑職ポストを経たことで竹下は自他ともに許す、党内第一人者としての選挙のプロになった。

選挙のプロに、足を向けて寝られる者はいない」



・田中角栄と福田赳夫が、昭和47年の角福総裁選を演じるなか、田中派の多くの議員秘書は、

当時の田中派事務所で夜を徹して立候補挨拶状など文書の発送業務をしていた。

田中角栄は、どんなに夜が遅くとも一日も欠かさず顔を出し、こう言って頭を下げるのが常だった。


「本当にすまんなあ」



・当時の田中派のある幹部秘書は、こう言っていたものだ。

「永田町広しといえども、オヤジさんクラスの大実力者があんなときに、

いちいち頭を下げて例を言うなどということはあり得ない。

秘書の間から、『オヤジのためなら、死ぬまで一緒だ』

『先生の号令なら、矢でも鉄砲玉にでもなれる』という声が出てむべなるかなということでしょう」


頭を下げよ。

下げて、損をするものは何もない。

「気配り」のこの高等戦術ができれば、一人前ということである。



・面倒をいとわず「雑談の名手」を目指せ。

人にかわいがられる。

竹下という人物は、一方で無類の「雑談の名手」であった。

雑談のなかでさりげなく気配りをし、相手を取り込んでしまうのを得意とした。



・竹下における「雑談の効用」は、一方で「老人キラー」としての強みも発揮する。

年寄りは、いつの時代も寂しい。

かつてどんな威光を示した人物でも、さすがに往時のようには人が寄ってこない。

竹下は、とりわけ用もないのに暇を持余しているようなベテラン、長老議員をひょういと訪ねては、

ひとしきり雑談に興じてくるのをトクイとした。


「訪ねられた議員が、竹下をかわいく思わないわけがない。

『この前、竹下クンが来たが、アレは勉強している。竹下クンは伸びるぞ』

みたいなことを、必ず誰かにしゃべっている」(竹下番の政治記者)



・竹下流は「漢方薬のようにジワジワ効いてくる」と言われた。

彼は若いときから不変の「調整名人」と「面倒見のよさ」があった。



・「汗は自分で、手柄は人に」を実践した県議時代は、「陽性の策士」が異名。

島根県議になった竹下は、じつに巧緻極まる戦略で臨んだ。

その流儀とは、ひとことで言えば、決して前へ出ないで、あくまで裏方に徹することであった。



・県議2期目になると頭のいい竹下はすでに県予算のノウハウなどをすべて熟知、

勉強不足の先輩議員の知恵袋ともなっていた。

「この補助金は県庁のどこの課に行ったらラチがあくのか」と尋ねれば、

竹下は「地方課がいい」などと、ただちに答えてくれるといった具合である。



・佐藤栄作総理は、「地獄耳の栄作」とも言われ、その人脈の広さから、まず情報力に優れていた。

首相になっても、7年8ヶ月の長期政権をまっとうしただけに、

人事に巧みで人心掌握術にも優れていた。

大向こうをウナらせるような派手さはないが、一度決断したものは、

必ず「落とすところに落とす」という凄みがあった。

竹下は、その佐藤から多くの薫陶を受けた。



・代議士一年生になって初めて佐藤のそばに寄ったとき、竹下は佐藤にまずこう言われた。

「毎朝、私の自宅に顔を出しなさい。

人と知り合うことができる。

将来を期そうとするなら、地方議員を育てていきなさい。

必ず、役に立つ日が来る。

そのうえで、人の話を聞くことだ。

人間は口は一つ、耳は2つだ。

自分で主張する前に、まず人の話を聞くこと。

これが人間関係をうまくやるコツになる」



・竹下は地道な活動の末に、全国各地に多くの地方議員人脈ができあがった。

ビジネスマンが、関連会社、子会社の社員、あるいは取引相手との間に、

竹下のような幅広い人脈の構築があれば、必ず火急の折に役に立つ。



・佐藤は竹下に言った。

「相手の経歴は暗記しても覚えよ。メリットがある」

いまの国会議員でも、佐藤の言葉のように、役人、国会議員の諸々の個人情報が、

頭に入っている者は極めて少ない。

なぜなら、全省庁の課長クラス以上は数百人もいるし、国会議員の数も同様である。

よほどの超頭脳、超記憶力の持ち主でなければ、なかなか叶わぬことだ。



・竹下における超頭脳、超記憶力については、

すでに国会議員となる前の島根県議時代にも発揮されていたという証言もある。

「県庁職員のすべての課長以上のフルネームを、一晩で詰め込んでしまったというエピソードがある」

(地元有力後援者)



※コメント

竹下さんの伝説は、田中角栄さんと同様、事欠かない。

それだけいろいろ動いたということであろう。

よく批判される人は、仕事をしている人だといわれるが、

たとえ泥をかぶっても何かを成し遂げることは大事だ。