◆NHK取材班『日本海軍400時間の証言:軍令部・参謀たちが語った敗戦』を読み解く



※要旨



・戸高一成氏と出会ってから2年近くたったその日、居酒屋に私たちはいた。

そこで彼がそれまで一度も口にしなかった「軍令部」中枢の海軍士官などによって、

秘密に戦後行なわれていた「海軍反省会」とその録音テープの存在を明らかにした。



・戸高氏が明かした「海軍反省会」とは何か。

1980年から1991年まで、分かっているだけで131回にわたって、ほぼ毎月、

海軍士官のOB組織である「水交会」で開かれた、秘密の会議である。

メンバーの多くが、太平洋戦争当時、軍令部や海軍省に所属していたエリート軍人だった。



・戸高氏は千葉市の自宅の近くに、一軒家を改築した書庫を設けている。

そこに毎週通う古本市などで入手した、膨大な量の資料や書籍を収納している。



・海軍は、陸軍に比べ、士官の絶対数が少ない。

しかも、狭い艦艇に皆が同乗して戦うため、士官同士の人間関係が非常に重要視される。

その基礎となるのが、海軍兵学校の同期、先輩後輩の関係だというのである。



・海軍が行う作戦の計画・立案を担うトップエリート集団、軍令部。

なかでも「作戦課」と呼ばれる軍令部一部一課を統括する一部長は、作戦に関する絶大な権力を持っていた。



・「海軍は、オープンな組織だったにもかかわらず、大きな組織(海軍)の方針について、

思ったことをすべて言えなかったところがあった。

反省会では言うべきことを言ったが、戦時中、トップの方針に対しても言うべきだったのに言えなかった」

(鳥巣建之助中佐)



・豊田隈雄大佐は、海軍兵学校卒業後、艦隊勤務、海軍大学校を経て、

昭和15年から終戦まで同盟国ドイツに駐在、大使館付武官補としてドイツとの折衝役という大任を担っていた。


豊田氏は、「反省会」でこう発言している。

「およそ(東京裁判の)2年半の審理を通じ最も残念に思ったことは、海軍は常に精巧な考えを持ちながら、

その信念を国策に反省させる勇を欠き、ついに戦争・敗戦へと国を誤るに至ったことである。

陸軍は暴力犯。海軍は知能犯。

いずれも陸海軍あるを知って国あるを忘れていた。

敗戦の責任は五分五分であると」



・東京裁判の結果、「陸軍悪玉・海軍善玉」イメージを、戦後長らく、今に続くまで、

われわれ一般国民の間にひろく浸透させたといわれている。

本当に陸軍だけが「悪」で海軍は「善」だったのか。

別の言い方をするならば、海軍が結果的に免責とされたのはなぜだったのか。



・戦後長い間、海軍による組織的な裁判工作は、歴史の空白となっていたともいえる。

それが判決にどう影響を与え、海軍の善玉イメージがどのように作られていったのか。

その空白を埋めるような反省会における豊田大佐の発言は、メガトン級の破壊力を持っていた。



・豊田大佐は、終戦後、ドイツから帰国直後、軍令部第三部(情報部門)の竹内少将から、

本格化する戦犯裁判に対応するために力を貸してほしいと懇願された。

豊田大佐自身も駐在武官として太平洋戦争の戦場に一度も立つことが出来なかったことを、

心から悔いていた。


「祖国の興廃のかかる戦争になんらお役に立てなかった武運誠に残念で相済まないこと。

与えられた戦争裁判事務、これこそが私の戦場であり、これからが私の戦争である」

(豊田隈雄手記より)



・海軍の裁判対策で鍵を握っていたのも、やはり軍令部だった。

軍令部は敗戦直後に解体されたが、その実態は消滅していなかった。

昭和20年11月30日、GHQの指令により海軍省は解体され、後継として「第二復員省」が発足した。

軍令部は解体されたが、実態は厳然と残り、第二復員省が水面下で進める裁判対策において、その「能力」を発揮することになる。



・海軍省はそもそも日本の中央省庁の一つであるため、連合国によって実施される戦犯裁判に対し、

政府の一員として協力する側であり、海軍関係の戦犯容疑者の弁護などはGHQによって一切が禁じられた。

しかし実際には、GHQの目をかいくぐっり、海軍関係者の擁護、裁判対策に組織をあげて取り組んでいたのである。



・海軍省の後継組織である「二復」が行った水面下の裁判対策。

その知られざる実態の一端を明らかにしたのが、反省会における豊田大佐の発言だった。

実際には一人の極刑者も出さなかった東京裁判において、当初、極刑必至と目されていた人物がいたことを打ち明けている。

その人物とは、嶋田繁太郎海軍大将。

開戦時の海軍大臣にして、後に軍令部総長も兼務した。

真珠湾奇襲を決行した際の海軍大臣であり、日米開戦にゴーサインを出した国家首脳の一人であったからである。

「海軍の象徴」である嶋田の極刑を回避することは、「戦後の海軍」にとっては極めて重要であり、

裁判対策の主眼もここに置かれることになった。

豊田大佐たちは、先行して開廷していたナチスドイツを裁くニュルンベルク裁判を徹底的に研究していた。



・海軍において中央を守るために、現場指揮官にのみ責任を押し付けた案件が多くあった。



・終戦から6年後の昭和26年。

すべての海軍関係者の戦犯裁判が終わった。

東京裁判で極刑判決を受けた海軍関係者はゼロだったが、

一方で、通例の戦争犯罪を裁いたBC級裁判ではおよそ200人の海軍将兵が絞首台へと消えた。



・裁判が終わっても、豊田大佐と戦犯裁判との関わりは途切れることはなかった。

豊田氏は、その後、第二復員省から法務省に移り、嘱託職員として、

全国を回って戦犯裁判に関わった被告や弁護人、遺族の聞き取り調査を実施。

その記録をまとめ、関連資料の収集を続けた。

18年かけて集め、綴った資料は5000点以上。

その中には、組織を守るために行った裁判対策や弁護研究の詳細、あるいは証拠隠蔽に関わる内部資料など、

第二復員省内部の機密資料を含め、ありとあらゆる資料が項目ごとにまとめられていた。


「このままでは重要な歴史が欠落してしまう」

豊田大佐がそう思い、覚悟の上でまとめたとしか考えられないほど、

海軍にとって都合の良いことも悪いことも包み隠さず残されていた。



・歴史資料は、識者によって加工された書籍などの二次資料ではなく、原典に目を通すことで、

初めて自分なりの発見がある。

本当に大切なことは記録には残らないし残さない。

残された記録や資料には残した人間の意図が必ずある。

残っている資料だけに捉われてはだめだ。   



※コメント

当時の出来事をいまの常識で考えることはできない。

もし自分がその場にいたら、回りの空気や雰囲気に対抗して判断や発言できたか、わからない。