◆牧久『満蒙開拓、夢はるかなり(下)』を読み解く



★副題→「加藤完治と東宮鐡男(とうみや・かねお)」



★要旨



・2005年、平成17年。

那須御用邸に滞在中だった、当時の天皇ご一家、紀宮様、眞子様が

お揃いで千振農協の開拓地を訪問された。

そして入植記念碑の前まで足を運ばれた。



→中込が、この開拓地の歴史を説明することになっていた。

前夜から準備をしてはいたが、

にこにこと微笑みながら目を向けられる両陛下に

中込の頭は真っ白になる。



→あわてて目の前にあった記念碑の碑文を、

「この中に私どもの思いのすべてが込められています」

と一言一言読み上げた。

途中からあふれ出す涙を押さえることが出来なかった。

碑文は初代団長・吉崎千秋が起草したものである。



→碑文。

「北満の東宮山に別れを告げ、

ここ那須山の麓にたどりついたのが昭和21年11月。

皆な傷つき皆貧しかった。

満州に失った千余名の愛し子兄弟達のことを想うと

立つ力さえ抜けていった。

然しこの我々を温かく抱いてくれたのはこの那須山と村の人々。(中略)

二代三代さらに我等の子孫が、よき村人として、立派な日本農民として、

この大地に育ちくれんことを。開拓は決して死なない」



・本書を書く動機は、

『不屈の春雷。十河信二とその時代』がきっかけとなっている。

満鉄理事だった、十河信二は石原莞爾らが起こした満州事変を支持し、

満鉄経済調査会委員長として「五族協和、王道楽土」の

「満州国」建設の計画立案を進めた。



・そんな十河と、日本国民高等学校長で農学者の加藤完治との接点は、

どのように生まれたのか。

取材の過程で加藤と共に「満蒙開拓の父」と呼ばれていた、

もう一人の人物の存在を知る。

昭和12年末、日本軍の杭州上陸作戦で連隊長として

先頭を切って突撃し、戦死した東宮鐵男という男である。



・生まれ故郷の赤城山麓で育まれた純粋性と義侠心に満ちた、

この男の実像は、不思議な魅力に溢れていた。



・当時、ソ連と国境を接する満州北部には、

広大な未墾の原野が広がっていた。

この地に「農業を生きがい」とする日本の純粋な若者を送り込み、

その原野を豊かな農業地帯に変え、

石原らの描く「五族協和」の理想国作りを推進しようとしたのが、

石原に心酔する軍人、東宮鐵男であり、

農本主義の教育者、加藤完治だったのである。



・この二人を結びつけ、

彼らの「満蒙開拓の夢」の最大の支援者となったのが、石原莞爾だった。



★コメント

歴史は、複雑な関係がからみあっている。

ひも解いて、学びたい。