◆牧久『安南王国の夢。ベトナム独立を支援した日本人』を読み解く



★副題→「ベトナム独立を支援した日本人」



★要旨



・本書の取材の過程で次第に明らかになったのが、

明治末年、フランスからの独立闘争のために

日本に亡命してきたグエン王朝直系の王子グオン・デと、

同じころ天草からハノイに渡った松下光廣との強固な盟友関係だった。



・日越の歴史の関わりの陰には、

クオンデを中心とする独立運動グループを密かに支援し続けた、

松下光広という男が、常にその中核として存在していたのである。



・1975年、サイゴン陥落後、

日経新聞のベトナム特派員だった私は、当時の記憶を辿り、

『サイゴンの火焔樹。もう一つのベトナム戦争』を書いた。

その中でかつての取材源であり、

向こう側(解放戦線側)の情報に強かった大南公司・常務の西川寛生について書いた。



・西川は大川周明の「大川塾」出身であり、

仏印派遣軍参謀長の長勇が組織した「許斐機関(このみきかん)」の機関員だった。

この「許斐機関」を追跡して出版したのが、

『特務機関長・許斐氏利。風せきれきとして流水寒し』である。



・両書の取材、執筆中、常に気になっていたのが、

「大南公司の創業者、松下光廣」という男の存在だった。



・日本軍がベトナムに進駐したとき、

長勇や許斐氏利、西川寛生らと現地ベトナム人たちを繋ぎ、

彼らが常に一目も二目も置き、心から信頼していた男、

それが松下光廣だった。



・苦学力行の十年。

松下光廣は、15歳のとき、1911年、

親戚のセキおばさんについていき、仏印に渡った。

セキは仏印で、小売店を出しており、

彼はセキの家に居候する形で、異郷での生活が始まった。



・セキは知人のフランス陸軍の将校に

光廣少年のフランス語の個人レッスンを頼んだ。

また現地の小学校の先生にベトナム語の特訓も頼んだ。

熱心な彼の語学力は短期間に伸びていく。



・彼は言語を学ぶだけでは満足しなかった。

日本で上級学校に進学した同じ年齢の若者と、

同じレベルの専門知識を独学で身につけなければと確信。

彼は早稲田大学に手紙を書き、同大学の商業講義録、法律講義録などだけでなく、

商業英語の講義録も取り寄せ、

独学で猛勉強を続けた。



・猛勉強の傍ら、街の洗濯屋の御用聞きを始めた。

生活費稼ぎであると同時に、フランス語の実地勉強でもあった。

フランス人主婦たちの早口の苦情も聞き分けられるようになった。



・彼はのちに大南公司を創設するが、経営哲学は、次のようなものだった。

「商売は儲けるためにやるものではない。

誠心誠意、人のためにと思ってやれば、利益はそれについてくる。

そのために損をするようなことがあっても、人の心は残る」



・フランスの経済人と全く違う松下の東洋的な経営哲学が、

現地ベトナム人たちの絶大な信用につながった。



・戦後、米国検察陣との司法取引に応じたと言われる元陸軍少将、田中隆吉の尽力で、

フランス当局の戦犯追及の手を逃れた松下光廣は、

大南公司の復活に向けて動き出す。



・松下に救いの手を差し伸べたのが田中清玄である。

田中は、戦前の非合法時代の日本共産党の中央執行委員長だったが、

獄中で転向、右翼活動家となった。

終戦直後は横浜で「神中組」を興し、神中造船所、

沼津酸素工業、丸和産業、三幸建設などの社長として

経済活動に乗り出していた。



・松下は1948年、東京・丸の内の田中清玄が社長をつとめる、

三幸建設の事務所の一室を借りて

「内外産業株式会社」の看板を掲げた。



★コメント

波乱万丈な人生と時代に学ぶことは多い。