◆前坂俊之『人生、晩節に輝く。長寿逆転突破力』を読み解く



★要旨



・107歳まで彫刻や墨書を創作し続けた平櫛田中は

「60、70歳は鼻たれ小僧。男盛りは100歳から」

との言葉を残し、生涯現役だった。



・凛々しく、清々しい晩年、世のため、人のために尽くし、年齢を重ねるごとに、

さらに輝きを増すような生き方とは、一体どのようなものであろうかと考え、

私はそれを探るために、美しい晩年を送った先達を訪ねて、長い旅に出た。



・そこで出会った、輝かしく晩節を全うした人たちの、

奇跡の逆転物語を本書で紹介したい。



・九十八歳で亡くなるまで生涯現役を貫いた作家の宇野千代も

「何歳になってもヨーイドン(出発)できる。私はヨーイドン教の教祖なのよ」

と書いた。



・渋沢栄一は

「人の生涯を重くするか、軽くするかは、一にその晩年にある。

人は晩年が立派でありさえすれば、若いうちに多少の欠点があっても、世間はこれを許してくれる。

私は輝かしい晩年を社会貢献をもって締めくくりたい」

と書き残している。



・1858年、御木本幸吉は三重県鳥羽でうどん屋の長男に生まれた。

一八七八年、二十歳の時、当時、東海道はまだ鉄道が開通していなかったため、

なんと徒歩で十一日かけて上京し、文明開化の風が吹く東京や横浜、

横須賀などの異人街で二カ月間にわたって商売と新知識の勉強をした。



・商才に長けた幸吉は異人街で見た真珠の人気に目を見張り、

人工真珠の養殖を思い立ったのである。



・幸吉が独力で三重県のへんぴな海辺で真珠養殖を志してから十七年、

「資源もない」「金もない」「情報もない」

「技術もない」の「ないないづくし」の環境で、

ついに成功を収めたが、

その時、幸吉はすでに四十八歳になっていた。



・幸吉は、時間が来るとスイッチをひねって、

経済、政治などのニュースを聞いては事業のタネにしていた。

ラジオニュースをヒントに、自分で「考えを練りたくって」結論を出していたのだ。



・独自に築いた幅広いネットワークから、新しい情報を収集していた。

幸吉は会話の中で、よく「活きた」という表現を使った。

「活きた話はないか」「金や時は活かして使え」

「人は活かして使うものだ」といった具合である。 



・七十歳を過ぎても一日に三十人近くの来客が次々にあり、お客さんであろうと、部下であろうと、

地位や男女の別なく活きた話であれば、熱心に耳を傾けた。



・終戦後、幸吉は面会を制限して、

一人となって日本の再建計画と真珠ビジネスの発展、

国民外交について、毎日毎日「練りに練って」考え抜いていたのだ。 



・幸吉は米国との取引のために、英語の勉強にも勤しんだ。

一九四六年二月から始まり「カムカム、エブリバディ」で評判になった平川唯一の英語講座をNHKラジオで聞くために、

電報でテキストを取り寄せた。



・「真珠王」幸吉は老いても情熱と生命力は衰えなかった。 

「いろいろと苦労もしたが、一杯八厘のうどん屋の倅から、運が幸いしてここまでくることが出来た。

そのうえ、わしは、長生きしたので、今日、世界の御木本になることが出来たのだ」

と振り返る。



・渋沢栄一は言った。

「人の生涯を重くするか、軽くするかは、その晩年にある。

人は晩年が立派でありさえすれば、若いうちに多少の欠点があっても、世間はこれを許してくれる。

若いうちが立派であっても、

晩年がよくなければ、

その人はつまらない人で終わってしまう」



・晩年の渋沢は、社会慈善事業に精力を傾け、ほとんどすべての財産を投げ出している。

六十九歳の時、自ら創立した五十九の会社と十七の団体役員から身を退き、七十六歳で完全に実業界から引退した。

その後は社会事業、慈善事業、社会貢献事業に打ち込んだ。



・渋沢の『論語と算盤』では、その理念について、次のようなことを書いている。 

一、富をなす根源は何かといえば、仁義道徳である。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することができない。 

二、道徳と離れた欺瞞、不道徳な商才は、真の商才ではない。



・御木本幸吉、渋沢栄一、鈴木貫太郎、吉田 茂、鈴木大拙、松永安左エ門、

松下幸之助など十六名の晩節に輝いた人物が、それぞれの時代背景の中で生きた人物像に焦点をあて、

思想、使命感、難局にあたっての突破力、長寿健康法などが書かれている。



★コメント

若手でも学べる点が多い。