◆池田知隆『謀略の影法師。小日向白朗の生涯』を読み解く


副題→日中国交正常化の黒幕。


★要旨


・「アラビアのロレンスよりも偉い」と、

匪賊に誘拐された英国人少女を救出した営口事件(昭和7年9月)で英国大使に称賛された小日向白朗。

その決着をつけると、満州国政府や関東軍幕僚から対匪賊工作への協力を求められていく。



・日本人でありながら満州の民間軍事組織・義勇軍の総司令の立場で、日本軍と義勇軍の融和に努めても、常に日本の側に立って行動している。

「戦火を避ける」との名目を掲げて白朗は満州での日本軍の治安工作の大役を担ったことに違いない。



・いまから半世紀前の1969年春、

中国との国交樹立の道を探っていたアメリカ政府から接触を受けた一人の日本人がいた。

戦前、満州(中国東北部)を舞台に日本人馬賊王として活躍していた小日向白朗(こひなた・はくろう)。



・小日向が当時、中華人民共和国の毛沢東と中華民国(台湾)の蒋介石との双方にルートをもち続け、

アメリカが小日向から中国との国交に向けての知恵を得ようとしていた。



・小日向は儲けた金を旅費にして故郷の両親にも告げず、単身で海を越え、満州に渡った。

17歳の春のことだ。



・建川美次や土肥原賢二、板垣征四郎ら後の日本の戦争責任を負う面々がいて、小日向は可愛がられた。

柔剣道から拳銃の打ち方まで訓練をうけ、

北京での2年間の修業時代を過ごす。



・やがて外蒙古に向けて旅立った。 

だが、すぐさま馬賊に襲われ、持ち物すべてが奪われる。

奴隷のような下働き、馬賊としての初陣、決死隊に志願して大手柄、草原の恋、関帝廟での死闘。

数多くの戦いで頭角を現していく。



・馬賊の聖地、千山無量観で道教と中国拳法の修行をつみ、

大長老の葛月潭老師より「尚旭東」の名と破魔の銃「小白竜」を授かった。

この瞬間、小日向白朗は中国全土の馬賊の総頭目となった。



・命と引き換えに馬賊・楊青山の下働きとなった白朗は、

さまざまな戦闘で死に場所を求めて動き回り、

次々と手柄を立てていく。



・楊青山が戦死するや一気に頭目に推挙される。

義侠心からの殺人や逃亡劇を繰り返した果てに馬賊や道教の聖地、千山無量観に逃げ込み、

3年間、座禅を組み、拳法の修業を重ねた。



・長く馬賊暮らしをするなかで満州の農民たちの窮状に接し、深く共感しながらも、

白朗には日本陸軍機関員としての使命感が息づいていた。



・白朗が戦後のネットワークに広げていく糸口の一つに合気道開祖、

植芝盛平との交流がある。



・二人が出会ったのは1924(大正13)年春。

植芝は新宗教「大本」の聖師、出口王仁三郎と蒙古に向けて旅をしており、

馬賊の頭目だった白朗は聖地・千山の葛月譚老師から

王仁三郎に会うように勧められたのだ。



・朽木の取材、執筆は1年半に及んだ。

朽木は、白朗が語る物語を

「いわゆる小説家的空想力のとうてい及ばぬものにみちみちている」

と、あとがきでこう書いている。


・小説の面白さは、白朗による「事実談の魅力」にもあるが、

これを壮大なロマンとして仕上げたのは朽木寒三の作家的力量によるものだ。



・その本の解説で芥川賞作家、八木義徳が

「たとえどんなすばらしい記憶力を持った人間でも、自分のすべてを語り尽くせるものではない」

と語るように、

コマ切れのように語られる話し手(白朗)の記憶の集積を整理し直し、

記憶の欠落した部分を想像によって補いながら、

物語としてつくりあげなければならないからだ。



・八木によると、朽木の取材ノートは、一冊60ページの大学ノートが40冊。

それに細かいペン字がぎっしりと詰まっていた。



・これをそのまま400字詰め原稿用紙に書き写したら、おそらく9000枚は超える。

それを1640枚に圧縮したことで、

小日向白朗を主人公とした伝奇的ロマンの物語が強烈な迫力をもって生まれた。



★コメント

面白いエピソードが満載である。

研究したい。