◆播田安弘『日本史サイエンス〈弐〉』を読み解く
★副題→「邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く」
★要旨
・山本五十六連合艦隊司令官は海軍航空隊まで設立し、
ほとんどの国がまだ航空機の効能を軽視していたなかで、確信をもって飛行訓練を重ねていました。
・そもそもは、日本の海軍は「大艦巨砲主義」ではなかったのです。
むしろ、当時は米国や英国のほうが多くの大型戦艦を建造していました。
世界が航空機の重要性に気づいたのは皮肉にも、日本がのちに真珠湾攻撃と、
続くマレー沖海戦で大勝利をおさめてからでした。
・平賀は、条約による制限のもとで精魂込めて、
小型の巡洋艦でも1クラス上の巡洋艦と同じ性能や砲力をもたせようと、
特異な設計をして世界を驚愕させつづけました。
平賀は「造船の神様」とも呼ばれ、まさに伝説の設計者となったのです。
・太平洋戦争で、なぜ日本の巡洋艦と駆逐艦が魚雷攻撃に対して異常に弱かったのか。
それは、これらには構造上、きわめて大きな欠陥があったからです。
そして巡洋艦の欠陥は、平賀の設計に原因があったのです。
・米国の駆逐艦はタービン室、ボイラー室、タービン室、ボイラー室と交互に配置していたため、
どこかの2室が浸水してもどこかは残るので、
動力は低下するものの艦は動くことができたのです。
その差は生死を分けるものでした。
・米国の設計思想はそもそも、
損傷したときにいかに被害を小さく抑えるかというダメージコントロールを重視していました。
・邪馬台国論争は江戸時代から続いており、
現在ではおもに九州説と近畿説が人気を二分しています。
近年では近畿の纒向遺跡(奈良県)から大型の建屋などの構造物が見つかり、
多量の桃の種が発掘されてその年代がまさに卑弥呼が生存していた時期のものであることがわかり、
近畿説が有力視されてきているようです。
・『魏志倭人伝』に記されている方角や距離から
邪馬台国の場所を正確に特定することは難しいであろうというのが筆者の考えです。
それでも『魏志倭人伝』をいまから検証するのは、
筆者のような船の専門家という立場で解読を試みた例は、
これまであまりなかったように思われるからです。
・九州説や、瀬戸内コースの近畿説には、それぞれに難点があるのです。
・一行は不彌国から船に乗り、下関(山口県)を経由して山陰に渡り、
日本海を東へ進んだのではないでしょうか。
その航路は当時、邪馬台国の卑弥呼が糸魚川で産出される翡翠を輸出して
大陸から鉄を輸入する交易につかわれていた「鉄と翠の道」です
・『魏志倭人伝』を合理的に読むならば
筆者が豊岡から上陸するルートを有力視する理由の一つは、
豊岡には「アメノヒボコ伝説」があるからです。朝鮮半島の新羅の王子アメノヒボコが豊岡に流れ着き、
大陸から鉄などをもたらし治水事業に尽力してくれたおかげで、
泥海だった豊岡盆地が肥沃な土地に変わったという言い伝えです。
・中国使節団が邪馬台国に向かうとすれば、
あえて不慣れで危険な航路を行くよりも、
すでに交流の実績があり、地形や海流などの情報も蓄積されている山陰の「鉄の道」を
利用する可能性は高いのではないでしょうか。
『魏志倭人伝』には記載はありませんが、
おそらく出雲にも立ち寄っていることでしょう。
★コメント
科学の視点からの歴史をみることは、新しい発見がある。
読み込みたい。