◆前田啓介『昭和の参謀』を読み解く
★要旨
・大本営、参謀本部に在籍した参謀から、
堀江のような第一線で戦った参謀まで、昭和の参謀たちは、
さまざまな場面、場所で戦略、戦術を用いて、戦争を戦い、軍や国民を導いた。
・敗戦という結果の悲惨さと深刻さが、
戦前昭和の参謀に対する評価にも反映され、
長らく独断専行、下克上(げこくじょう)の象徴のように扱われてきた。
・そのようなネガティブな評価が根強い一方で、ある局面においては
「短時間における判断力」や「企画、立案力」を持ち、
しかも「議論達者」で「意志鞏固(きょうこ)」であると、その能力が認められもした。
・戦後社会は無条件で彼らを受け入れたわけではなかったが、
参謀という存在を無視することもできなかった。
いやむしろ、局面によっては積極的に受け入れたのだった。
・戦前昭和の参謀たちの役割は敗戦によって終わった、とも思われており、
軍が崩壊した後の彼らの人生は意外と知られていない。
・戦争にどう関わったかという参謀の本分に関しては関心が持たれるが、
戦後の生き方に焦点があたる機会は少なかった。
・戦前の参謀であっても、大佐や中佐、少佐の佐官クラスだと、
終戦時はその多くが30代から40代前半で、
将軍と呼ばれる将官でも50代、
残りの人生を「休暇」として過ごすには戦後はあまりに長かった。
・辻政信の陸士同期(36期)を見ていきたい。辻は、前回の瀬島と並び、おそらく参謀の中で最も著名な一人だろう。
だが、その辻の人名表の序列は、皇族である閑院宮春仁王を除き、上から3番目だ。
では、この期のトップとなったのは何者なのか。
・あまりに有名な同期生の影に隠れる形となったナンバー1の軍人の姿を追ってみよう。
1位となったのは、宮子実という人物だ。
・1903年1月に生まれた宮子は、
同郷の辻と同じく小学校高等科から名古屋陸軍幼年学校に入学する。
幼年学校ではロシア語を修習した。
・1953年、「中国事情調査会」という組織の会長に就任し、
1960年から10年間は世界政経調査会で第二部長という役職に就いている。
・「河辺機関」として知られる組織には、
吉田茂の軍事顧問であり、終戦直後から国民党軍と米占領軍、
双方と諜報面で協力関係のあった辰巳栄一や最後の陸軍大臣下村定も中心メンバーとして加わった。
・この機関の任務は、終戦時における各地方の治安状況を調査するとともに、
とくにシベリア方面からの引揚者による共産化活動や対ソ情報の収集等、
当時の国内治安維持のための情報活動が主体であった。
・邦人引き揚げ者からの情報は、中国の国内事情を知る上で不可欠であった。
二十七年六月、辰巳は元大本営の情報参謀ら旧軍人の七人を選び出し、
航空総軍参謀だった宮子実元大佐を責任者とした。
・そして宮子を責任者とする組織の名前を「陸隣会」とした。
また、辰巳は日記に、この組織のことを「宮子機関」と記していたという。
★コメント
軍人たちは、戦後もさまざまな場面で、役職をかえて戦っていた。
終戦により、戦いは終わっていなかった。
あらためて学びとりたい。