◆常井健一『無敗の男。中村喜四郎、全告白』を読み解く
※要旨
・「党より人」
中村はどんな逆境に立たされようと、
自分の政治姿勢をたった四文字のコピーに凝縮し、
二本の足を駆使した独特の選挙戦術で
有権者との距離を縮めてきた。
・選挙区内の全集落を毎月二周も街宜車で
巡回し、選挙期間に入れば、十二日間で百五十か所以上に辻立ちする。
・すさまじい運動量の結果、
筑波山麓の一帯ではカルト的な人気を集め、
無双の勝負強さで「孤高の一議席」を維持してきた。
その姿を、平安時代の武将、
平将門になぞらえる声さえある。
・千年前、「坂東」と呼ばれた中村の地元一帯で蜂起し、
十倍以上の兵力を擁する朝廷の軍勢に
連戦連勝を果たした英雄と重ね合わせるのは、
少し大げさだろうか。
・人は、並外れた結果をもたらす「超人」を目の前にした時、
それを何かに例えてみなければ理解できない。
中村喜四郎という政治家も、
そうでもしなければ実態はつかめない。
「最強の無所属」
「沈黙の政治家」
「日本一選挙に強い男」
「角栄最後の愛弟子」
そして
「男の中の男」
・これほど多くの二つ名を抱える政治家を、私は他に知らない。
にもかかわらず、
中村の半生を扱ったノンフィクションは、この世に一冊も存在しない。
・中村は、ともに自民党の参院議員を務めた父と母を持つ。
・日本大学法学部を卒業した後に
田中角栄事務所に入り、
二十七歳の時に故郷の旧衆院茨城三区から初当選を果たした。
・その後、1987年に
自民党田中派が分裂すると
「経世会(竹下派)」の結成に参加し、
若くして派閥の事務局長 に上り詰めた。
・翌1989年(平成元年)には、
四十歳の若さで初入閣(宇野宗佑内閣の科学技術庁長官)。
「戦後生まれ初の閣僚」 となった。
・同じ派閥の小沢が自民党幹事長だった頃には、
選挙対策を担当する党の総務局長を務め、
1992年には宮沢改造内閣の建設大臣に抜擢される。
・若くして二度の大臣を経験した中村は、
その前後から
莫大な公共事業予算を動かす
「建設族のプリンス」としても頭角を現していた。
平成初期に隆盛を極めた経世会の中では
小沢の「次」を担う「将来の総理候補」と目された。
・ところが、一九九四年、ゼネコン汚職事件に絡み、
あっせん収賄罪容疑で逮捕され、
自民党離党を余儀なくされた。
・四十四歳で刑事被告人という、
重い十字架を背負ったのである。
並みの政治家であれば、
その時点で、死んだも同然だったろう。
・しかし、中村の場合、
そこから新たな伝説が始まった。
・逮捕前、中村は検察による任意の事情聴取を拒否し続けた。
自ら検察庁に出頭し、
逮捕されてからは完全黙秘を貫き、
並み居るエリート検察官たちを相手に
供述調書を一通も作らせなかった。
・百四十間の勾留中、
自分の名前さえも喋らなかったという逸話は、
令和の政界においても語り草になっている。
※コメント
中村さんの凄まじい人生に感服する。
思想信条は別にして、
このようなサムライが
日本にまだいたとは感慨深い。