◆本村凌二『競馬の世界史』を読み解く


★要旨


・ロンドン再生とクラブの流行。


・1666年の九月、ロンドンで大火災がおこった。
四日間にわたってロンドンは焼き尽くされ、
20万人以上が家を失った。
その後の布告で、
新しい建物は煉瓦造りか石造りとされ、
街路は十分な幅をもつべきことが命じられた。


・それにともない、ロンドンは、
まったく新しい外観をもつことになる。
おびただしい数のコーヒーハウスが開業する。


・やがて、
その数は3000軒以上にのぼった。
そこはさまざまな情報交換や商取引の場であり、
世論形成の場でもあった。
しかも、あらゆる階層の人々が
気ままに出入りしたので、
喫煙の習慣やらの新風俗、新思想、
流行語などがここから生まれている。
それは市民生活のなかの開かれた空間であった。


・しかし、十八世紀になると、
閉鎖的なクラブや酒場に移り変わっていく。
政治クラブ、文学クラブ、社交クラブ
あるいは秘密クラブなどが現れては消えていき、
まさしくクラブの時代であった。


・このような雰囲気のなかで
競馬を熱愛する人々の集まりが
生まれたにしてもなんら不思議ではない。


・独立以前のアメリカ
およそ一万年前に馬が絶滅したアメリカ大陸には、
十五世紀末にヨーロッパ人が訪れたころ、
馬はいなかった。


・十七世紀になると、
多くのイギリス人が入植し、同世紀半ばには、
ピューリタン革命で亡命した王党派の貴族が
東海岸に定住し、
ヴァージニア州で競馬をはじめた。
しかし、深い森林におおわれていたので、
開拓地は貴重であった。
このために道は狭く距離も、
短縮せざるをえなかったらしい。


・安田は世論の喚起と理解に尽力し、
辛抱強く馬券復活運動をつづけたのである。
この間、陸軍省とも密接かつ良好な連携を保ちながら、
さらに衆議院選挙に立候補して議員になり、
二期にわたって政界で馬券復活運動を推進した。


・この期間、二度にわたって競馬法案が
議会に提出されたが、
いずれも貴族院の大反対にあって
陽の目をみなかった。

・だが、第一次大戦における
列強諸国の膨大な軍馬所有を見聞すると、
陸軍もふたたび馬匹改良を再認識し
競馬法の提案に本腰を入れるようになったという。


・そのような諸々の努力の重なりのなかで、
一九二三年(大正十二年)三月、
「未成年、学生、競馬関係者の勝馬投票券の購買禁止」をふくむ競馬法案が
衆議院で可決された。


・それを見届けた安田伊左衛門は
事務所に帰り、冷酒、スルメ、みかんで
質素な祝宴をあげ、
「今までの苦難の道を忘れず、
あくまでも正しい競馬を実現しなければならない。勝って兜の緒を締めよ」と語ったという。

・今日の競馬ファンはGI「安田記念」の
ファンファーレが鳴ったとき、
この言葉を忘れないでいたいものだ。


★コメント
競馬から世界史を学ぶとは、
面白いコンセプトだ。
調べたい。