◆佐野眞一『旅する巨人:宮本常一と渋沢敬三』を読み解く


※要旨


・宮本常一は、今日の民俗学の水準からは想像をできないような巨大な足跡を、
日本列島のすみずみまで印した民俗学者だった。
その徹底した民俗調査の旅は、1日あたり40キロ、延べ日数にして4000日に及んだ。
宮本は73年の生涯に合計16万キロをただひたすら自分の足だけで歩き続けた。


・常一の父は、常一が島を離れるとき、
これだけは忘れぬようにせよと、10ヶ条のメモを取らせた。
次のようなものだ。

1.汽車に乗ったら窓から外をよく見よ。
田や畑に何が植えられているか、育ちがよいか悪いか、
村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうところをよく見よ。
駅へ着いたら人の乗り降りに注意せよ。
そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。
また駅の荷置き場にどういう荷が置かれているかをよく見よ。
そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、
よく働くところかそうでないところかよくわかる。


2.村でも町でも新しく訪ねていったところは必ず高いところへ登って見よ。
そして方向を知り、目立つものを見よ。
峠の上で見下ろすようなことがあったら、
お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、
周囲の山々を見ておけ。
そして山の上で目をひらいたものがあったら、そこへは必ずいって見ることだ。
高い所でよく見ておいたら道に迷うことはほとんどない。


3.金があったら、その土地の名物や料理は食べておくのがよい。
その土地の暮らしの高さがわかるものだ。


4.時間のゆとりがあったらできるだけ歩いてみることだ。
いろいろのことを教えられる。


5.金というものは儲けるのはそんなに難しくない。
しかし使うのが難しい。


6.私はおまえをおもうように勉強させてやることができない。
だからお前には何の注文しない。
好きなようにやってくれ。


7.ただし病気になったり、自分で解決のつかないようなことがあったら、郷里へ戻って来い。
親はいつでも待っている。


8.これから先は子が親に孝行する時代ではない。
親が子に孝行する時代だ。


9.自分でよいと思ったことはやってみよ。


10.人の見残したもの見るようにせよ。
そのなかにいつも大事なものがあるはずだ。
あせることはない。
自分の選んだ道をしっかり歩いていくことだ。


・宮本は東京高等師範学校の受験に失敗するが、もうそんなことはどうでもよかった。
宮本の頭の中には、自分の人生を切り拓くために、
凄まじい努力をかかさずつづける大宅壮一の姿だけがあった。
宮本は大阪に戻ると、ひと月1万ページを読破することを自ら課し、
すさまじい乱読時代に入っていった。


・明治大正文学全集、世界文学全集、近代劇全集、世界思想全集から、
有島武郎、国木田独歩、島崎藤村、石川啄木まで手当たり次第に読みふけった。
途中、病気になった。
長い病床で宮本はひたすら本を読んだ。
長塚節全集、正岡子規全集、近松門左衛門全集、万葉集などをくりかえし読み、
万葉集の半分は諳んじられるほどになった。


・渋沢敬三は、渋沢栄一の孫であり、戦中は日銀総裁、戦後は大蔵大臣をつとめた経済人でもあり、
政治家でもあった。
同時に、柳田国男と並び称される我が国屈指の民俗学者でもあった。
そして多くの民俗学者のパトロンでもあった。


・敬三が本格的民俗学者として開花するのは渋沢栄一の死後だった。
敬三は、父親が蕩児あったため、渋沢一族の期待を一身に背負い、重圧があった。
栄一の死後、敬三は病気になり、療養のため昭和7年の春を伊豆内浦で過ごした。
その療養中、彼は滞在していた浜の隣りあった集落の古老から、
思いもかけない貴重な古文書をみせられた。


・この地方屈指の旧家である大川家秘蔵の古文書には、
同家に伝わる戦国時代から明治に至る二千数百点もの民俗資料が収録されていた。
そこには、これまで一度も発見されたことのない一つの村の400年にわたる歴史と、
海に暮らす人々の生活が克明に記されていた。


・驚喜した敬三は、一部ずつ風呂敷につつんで宿に持ち帰り、
貪り読んでは一心不乱に筆写した。
敬三とアチック同人の手によってまとめられた
この総計三千ページにも及ぶ大著『豆州内浦漁民資料』が、
民俗学者渋沢敬三の名を不動のものとした。


・敬三が二高以来の同好の士を集め、
三田の屋敷の屋根裏部屋に動植物の化石や郷土玩具を蒐集したアチック・ミューゼアムを始めたのは、
宮本がはじめて敬三と出会った昭和10年を遡ること14年前の大正10年、
東大経済学部を卒業まぎわのことだった。
それよりさらに7年前の大正3年、敬三は我が国民俗学の泰斗、柳田国男と最初の出会いを果たした。


・敬三は周囲の学者にやみくもに金を与えたわけではなかった。
彼は柳田といういつ爆発するかもしれない癇性をかかえた老人から、
民俗学や民族学を目指す若き学徒たちを守り、
そして育てる仕事を、細心の注意を払って重ねつづけた。


・柳田の足らざるところを陰で補いながら、
それでいて敬三は柳田と疎遠になることは生涯なかった。
それは柳田が敬三のもつ経済力に一目をおかざるを得なかったためというよりは、
父の廃嫡や、親類との間の目にみえない葛藤の連続、
そして祖父栄一の懇願による学者への道の断念など、
己の身の上に起きた耐え難い悲劇をバネにして己を意志的に鍛えていった、
敬三の人間的器量の大きさと、透徹した人間観に、
二十歳以上年長の柳田も敬意を払わざるをえなかったためだったといえる。


・自分自身の不幸な生い立ちや、柳田を中心とした複雑な人間関係が、
敬三の人を見る目と、人に対する細心の気配りを極意というべき境地にまで高めたことは確かだった。
彼のこうした人格形成には、その一方で、
金融人としての生き方にもかなり大きな影響を受けていた。


・敬三が第一銀行の調査部担当の重役として入行したとき、
酒井という調査課長がいた。
酒井はそのころ、人生問題に悩み、一心不乱に写経に専念しているような状態だった。
敬三はそれを見ても、ここには大変なのがいるなあ、というだけで、
酒井は神経衰弱だから退職させるべきだ、という周囲の声にも一向に耳を貸さなかった。


・それどころか、あの男はまともすぎるからああなったんで、
酒や遊びを覚えさせれば誰よりもいい銀行屋になれるよ、といって、
何かにつけては酒井を旅行や釣りに引っ張りだして気晴らしさせた。


・そのうち酒井の写経生活は終わり、重要な仕事を次々とこなすようになった。
戦後、酒井はついに第一銀行頭取にまでのぼりつめた。
その知らせを聞いた酒井の同僚たちは、もしあのとき渋沢さんがいなかったら、
敬三の名伯楽ぶりを口々に讃えた。


・敬三もお座敷遊びと終生縁が切れなかった。
宴席は敬三の鬱屈した気持ちの捌け口でもあったが、
それだけではなく、人間観察の恰好の場でもあった。


・昭和14年10月16日から20日間、宮本は渋沢邸にとどまった。
この20日間、宮本は毎晩12時すぎまで敬三の話を聞いた。
敬三は自分が交際している学者の一人一人についての人物評をし、
どんな偉い学者に対しても偶像崇拝になってはいけないと教えた。

「財界でも学界でも中心に居てはいけない。
いつも少し離れたところに居るべきだ。
そうしないと渦の中に巻き込まれてしまう。
そして自分を失う」


・敬三はいった。

「日本文化をつくりあげていったのは農民や漁民たちだ。
その生活をつぶさに掘り起こしていかねばならない。
多くの人が関心を持っているものを追究することも大切だが、
人の見おとした世界や事象を見ていくことはもっと大切なことだ。
それをやるには、君のような百姓の子が最もふさわしいし、意味のあることだと思う」

宮本はその話を聞きながら、
いま自分は生涯の師と生涯のテーマを得た、
というふるえるような気持ちを感じていた。


・戦後の財閥解体で渋沢家は多くの財産を失った。
敬三はこういっていたと言う。
「ニコニコしながら没落していけばいい。
いざとなったら元の深谷の百姓に戻ればいい」

元の深谷の百姓とは、祖父栄一の出身地の埼玉県深谷市のことを指していた。
敬三はそういいながら、元の敷地内にあったテニスコートの芝生をはがし、
そこにキャベツやサツマイモ畑をつくった。


・敬三の縁戚の阪谷芳直は、大蔵大臣を辞した直後の敬三を訪ねたことがあった。
昭和21年の公職追放令で、そのほかすべての公職も失っていた。
阪谷が三田のボロ家を訪ねていくと、敬三は地下足袋姿で畑から現れ、
阪谷に手製の野菜料理をふるまった。
これから日本中を旅して全国の篤農家たちを結びつける仕事をやるつもりだ、
と晴れやかな表情で語る敬三を見て、
阪谷は、戦後のドン底生活の時代に何か宝石でも見つけたような思いにかられた、という。


・敬三が幣原内閣の大蔵大臣に就任し宮中に伺候したとき、
昭和天皇と長い歓談となったことがあった。
生物学者でもある天皇と、
漁業について詳しい敬三が魚について談論風発しあったためだった。
あとで天皇は側近にこうたずねた。

「ところで渋沢は何を本職にしている大臣かね」


・明治維新後も渋沢栄一の徳川慶喜に対する敬慕の念は変わらなかった。
大政奉還に際して示された慶喜の英知と英断がなかったら、維新の大業はならなかった、
というのが栄一の考えだった。
栄一は『徳川慶喜公伝』の発刊を固く決意した。
20年近い歳月を要した公伝8巻が出ようとしたとき、
栄一は仙台の二高に在学中で、夏休みで東京に戻っていた敬三を、
湯河原の天野屋旅館に呼んだ。
静養かたがた天野屋で『公伝』の序文を書いていた栄一は、
その原稿を敬三に渡し、声をあげて読んでほしいと頼んだ。


・栄一はその序文の中で、自分がどうして慶喜公の知遇を得るに至ったか、
なぜこのような伝記の編纂を思い立ち、どういう経緯で今日に至ったかを、
ありのままに心を込めて書いていた。


・敬三は栄一にいわれるままその序文を読みはじめた。
はじめは退屈に思えたが、やがてその序文にこもる栄一という人物の気迫と、
幕末から維新の激動の歴史とともに歩んできたその人生のスケールの大きさが、
若い敬三の心にぐいぐいと迫り、魂を揺さぶった。
そこには日本の国の生きた歴史が躍動し、日本人の心が渦巻いていた。


・そして行間には、70歳を越えてなお火のように燃える栄一の、
国を思い、世を思い、主君を思いやる、正直で真摯な熱情がみなぎっていた。
敬三はついに圧倒され、突然、嗚咽とともに泣き伏してしまった。


・これ以後、栄一の敬三を見る目が変わった。
廃嫡となった長男篤二にかわり、孫の敬三を渋沢家の当主として育てあげるという意志が、
栄一のなかで本当に固まったのはこの時だった。


・宮本常一の名前がジャーナリズムの世界に登場するのは、昭和32年ごろだ。
平凡社から出版された『風土記日本』(全七巻)の仕事だった。
担当者は谷川健一だ。


・谷川は最初から宮本の異様な風体に驚かされた。
とてもこの人が素晴らしい学者とは思えなかった。
だが、ひとたび口をひらくと、凡百の学者ではないことはすぐわかった。
その驚嘆すべき知識に、谷川はたちまち圧倒された。
宮本は朝の11時から夜の7時までひとりで長広舌をふるった。
宮本の話題は考古学、農業、林業、海洋学にまで及んだ。
しかもそれらは単なる民俗学的知識の羅列ではなく、すべて体験が裏打ちされていた。
谷川は宮本の話に吸取紙のようになっていく自分を感じた。


・谷川がこの企画が成功するとはっきり確信したのは、
宮本が腹痛をおこし渋沢邸で臥せっていると聞き、見舞いに行ったときだった。
宮本は玄関脇の蔵書がうず高くつまれた三畳の部屋にせんべい布団にくるまって寝ていた。
みるとその布団の布地は、
鯉のぼりの吹き流しをつなぎあわせて仕立て直したものだった。
「そのときこれは本物の人間だと思った。
もし宮本さんが編集委員に入っていなかったら、
あの企画は間違いなく成功していなかったと思う」


・姫田忠義がはじめて宮本の名を知ったのは、「瀬戸内海の海賊」という新聞の寄稿だった。
彼の父祖はすべて瀬戸内海ぞいに生まれ育っていたため、
瀬戸内に関する知識は人並みに以上にもっているつもりだった。
しかし、そこに書いてあることは姫田の知らないことばかりだった。
とくに瀬戸内海海賊の背景にある庶民の生活と歴史が、簡潔にしかも深々と描かれ、
姫田は体がふるえるほど感動した。


・電話した翌日、姫田は三田の渋沢邸をたずねた。
宮本は瀬戸内海の地図を持ち出してはそれを広げ、
最後は床の上にまで広げた地図の脇に腹ばいになって、熱っぽく語り続けた。
姫田はただ驚くだけだった。
瀬戸内の島々の名前はもちろん、島の小さな入江や細かい山道、
人家やそこに住む人々の名前から性格まで、宮本は知りぬいていた。
話は次から次へととぎれることなくつづき、
どうやら一段落ついたのは夜の10時すぎだった。
実に12時間ぶっつづけの熱弁だった。


・この評伝を書き終えてあらためて思うのは、
この列島にもかつては、誇るべき日本人、美しい日本人がいたという、
ある意味できわめて単純な事実である。
名誉や栄達を一切望まず、黙々と日本列島のすみずみまで歩いた宮本常一も、
豪邸を物納して平然と「ニコ没」生活に甘んじた渋沢敬三も、
宝石のような輝きをもっている。


※コメント
圧倒的な迫力のある宮本さんと渋沢敬三さんである。
この本を読むまではお2人のことは知らなかった。
このような日本人がいたとは、まだまだ自分の知らない世界はたくさんあると感じた。


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