◆大下英治『専横のカリスマ、渡邉恒雄』を読み解く
※要旨
・わたしは、これまで読売新聞の
務台光雄(むたいみつお)、渡邉恒雄、
丸山巌、氏家齊一郎、内山斉の各氏について描き、
酒席を共にしてきた。
読売新聞社幹部との縁はそれほど深い。
・日本橋の小料理屋で、丸山を交え、渡邉と会った。
意外だったのは、
渡邉が取材を通して想像していた印象と
まるきり異なっていたことである。
陰気で、人をけっして内面に入り込ませない
守りの固い人物と思い込んでいた。
・ところが、豪快で、あけっぴろげで、
なんとも無防備であった。
<ここまでしゃべっていいのか>
ついこちらがそう思ってしまうほど、
秘密めいたことまで打ち明けた。
・パイプをくゆらせばがら、
大声で、冗談もいい、よく笑った。
いつの間にか、ある種の魅力を
感じてしまそうになったほどである。
・務台光雄社長が、
青森の八戸で読売新聞販売店の
全国大会に出るので、
その大会にわたしも出席してみることになった。
・わたしは、その大会で
務台社長のエネルギーにただただ圧倒された。
浴衣姿の務台は、
壇上で全国から集まった販売店主を前にマイクを握り、
立ったまま激しい口調で
自らの一代記を熱っぽく語りつづける。
とても80歳を過ぎた老人とは思えぬ迫力である。
・共産党くずれであった渡邉が、
義理人情の、もっとも古い体質の政治家大野伴睦の
懐に飛び込むことで、若くして、
「読売にナベツネあり」
といわれるまでの存在になっていく。
・中村慶一郎がキャップの渡邉のもと、
その薫陶を受けたのは、約2年間だった。
中村は、偉大な先輩である渡邉のすべてを吸収しようと、
その取材方法だけでなく、
人脈のつくり方や、新聞のスクラップの編集方法、
パイプのふかし方まで、
ありとあらゆるものを盗もうと試みていた。
・アメリカでも貪欲に勉強し、猛然と働く。
・渡邉は、アメリカで発行されている多くの新聞はもちろん、
『アトランティック』や『フォーリン・アフェアーズ』
『ニューヨーカー』などさまざまな雑誌を読み、
アメリカの政治だけでなく、社会や経済、
文化などを猛然と勉強していた。
・中村は、ワシントンでも
渡邉の仕事に対する熱心さを知った。
渡邉は、ワシントンでも東京の政治部にいたころと同じように、
新聞や雑誌などの記事を切り抜き、
テーマごとにまとめた膨大な量のスクラップブックを
つくっていた。
→『タイム』や『ニューズウィーク』などの記事を項目ごとに
分類して、索引をつけて、
補佐官の人名などの項目ごとに分類して、
キャビネットの中に収めてあった。
→「すごい量ですね」
関心を持った中村が渡邉に尋ねると、
渡邉が答えた。
「これ、おれが一人でやっているんだ。
これをつくっておけば、日本に帰ったらすぐに本を書けるぞ」
→実際、渡邉は帰国後、
そのときのスクラップをもとに、
昭和47年10月に、『大統領と補佐官』などの作品を出版している。
・1991年(平成3年)4月30日、
読売新聞社の中興の祖で当時、
名誉会長であった務台光男が亡くなった。
享年94であった。
→渡邉は、平成元年、63歳のとき、
務台に申し渡されたという。
「きみを65歳で社長にするから、
75歳まで10年間社長をやれ。
俺も小林さんも10年ずつやったからちょうどよい。
その10年のあいだに次の社長を育てろ」
→渡邉は、この10年前から、
ほとんど毎日のように務台と2時間、
役員食堂で昼食をともにした。
務台は自分が考案した販売店への手数料システム、
他紙の販売店を読売に鞍替えさせた武勇伝などを
愉快そうに話した。
→渡邉は、販売や財務について特訓も受けていた。
いわば、社長学を勉強させられていた。
・2000年11月、
森喜朗内閣の内閣官房参与をつとめていた中村慶一郎は、
加藤の乱の契機となった11月9日夜、
虎の門ホテルオークラの日本料理屋「山里」での
会合「山里会」に参加していた。
→「山里会」とは、
渡邉恒雄が主催するマスコミ関係者や政治評論家などの集まりで、
中村のほかに、田中角栄の元秘書の早坂茂三、
三宅久之らなどが参加し、
毎回政治家をゲストに呼び、会合を重ねていた。
※コメント
やはり人は会ってみないとわからない。
マスコミの記事だけで
その人物を判断すると間違うことになる。
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