◆松本正『雄弁家・チャーチル』を読み解く
※要旨
・20世紀最高の雄弁家の一人と謳われるチャーチルは、
第二次世界大戦勃発から8カ月後の1940年5月10日、
自らが所属する保守党の党員から冷たい視線を浴びながら
首相に就任した。
・チャーチルは5月13日、
首相として初めて議会下院の演壇に登ったのを皮切りに
19日に首相就任後初の国民向けのラジオ演説をした。
ドイツ軍の猛攻で英仏軍将兵ら30万人以上が
ダンケルクから英国に全面撤退した6月4日にも下院に登壇した。
・英国政治史上不朽の6月4日の演説で、
チャーチルは英仏軍の敗走を正直に国民に知らせた。
どうすれば難局を切り抜けることができるかを説明。
英国の人々に希望を与えて激励した。
・22歳のチャーチルは、
1897年、大英帝国のインド軍将校として
ロンドン南西の古都バースを訪れ、
生まれて初めて公衆の前で演壇に立った。
その日から、1965年に90歳で永眠するまで
約3千の演説原稿を書いた。
どんなに忙しくても仕事の合間を縫ってペンを走らせた。
・名演説は生涯に読破した5千冊以上の本から生まれ、
その書籍は、ウィリアム・グラッドストーンら19世紀の
名宰相の議会議事録から歴史や漫画、詩文、文学、科学など
多岐にわたる。
・チャーチルは並外れた記憶力の持ち主で、
一般人の平均語彙数より2倍半以上多い約6万5千語を
駆使して雄弁に語った。
だが生まれつきの優れた演説家ではない。
吃音障害に苦しんだ。
・初当選後の1901年、
下院議員として初めて登壇したとき、
空気が抜ける、擦れる発音を繰り返した。
1904年の下院での演説途中、
暗唱していた原稿内容を思い出せなくなり、
頭を抱えて壇上を去った。
・政治生活初期の大失態を機に、
チャーチルは文筆・演説力を磨いていく。
難解な官僚用語や意味不明な婉曲表現を嫌った。
易しい言葉を重視した。
・短い、パンチのきいた単語や句を選び、
簡潔な文章を好んだ。
古典文学を意識しながら文章にリズムをつけ、
散文より詩的文章を書いた。
・「才気煥発で、精力的で、頑固な人物」と
記すなど名詞に形容詞3~4語をかぶせ、
聴衆の頭に残るようにした。
歴史上の人物の名言をファイルしておき、
もっとも相応しい演説に使用。
・チャーチルは、
聴衆は事実と数字だけの演説に退屈する、
と話す。
話し手が歴史の小話や比喩、隠喩を演説文に挿入すれば、
聞き手の理解がいっそう深まるようになると力説する。
そうでなければ、
聴衆が演説会場から帰宅したころには
話し手の内容をきれいさっぱり忘れ去る、
と語る。
・頭の中で練った草稿を、
チャーチルは秘書にタイプで口述筆記させた。
言い回しや字句などを修正・校閲し、原稿を完成。
演説のリハーサル後、1904年の失敗を踏まえ、
原稿を携えて演壇に向かった。
40分の演説の準備に6~8時間かかった。
・登壇したチャーチルは演説のクライマックスで、
次々と生々しい事実を浴びせ、
聞き手に説得力のある結論を想起させていった。
また聴衆の感性ではなく理性に訴えた。
一時的な興奮を呼び起こすのではなく、
数か月たっても記憶に残る演説を心掛けた。
台本のナレーターやアナウンサーのように話した。
・チャーチルの1940年5月~6月の名演説は、
長年にわたって蓄積された学識の集大成だ。
付け焼刃の知識から生まれたのではない。
鋭い文章力によって躍動した演説が、
議員や国民に感動と勇気を与え、
不退転の決意を固めさせた。
・一方、政敵は6月4日のチャーチルの演説で、
17世紀以来、先人が守ってきた
英国の遺産「自由と民主主義」を
暴君ヒトラーから守り抜かなければならないと気づき、
首相のリーダーシップを初めて認めた。
※コメント
長い時をかけて、
チャーチルは弁舌とリーダーシップを磨き上げてきた。
その過程を研究したい。
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