◆金子淳一『四元義隆の生涯:昭和激流』を読み解く
※要旨
・四元義隆は平成16年、96歳で波瀾の生涯に幕を閉じた。
戦後、政界の中枢に広く人脈を築き、
隠然たる影響力を持ちながら、決して徒党を組まず、
富や名声を追い求めることを嫌った。
・四元の生涯を昭和史とのかかわりで見ていくと
おおまかにいって3つの時期に分けられる。
1.昭和3年、彼が郷里鹿児島を出て
東大法学部に入学してから、
学生組のリーダーとして血盟団事件に参画し、
逮捕される昭和7年まで。
2.昭和15年、小菅刑務所を仮出所した後、
時の近衛首相やのちの大臣になる緒方竹虎の知遇を得て活躍。
終戦の首相を務めた鈴木貫太郎の秘書役やり、昭和20年で終わる。
3.ワンマン宰相と呼ばれた吉田茂に信頼されたことから始まる。
そして保守本流といわれる政治家を中心に人脈を築いた。
・四元が子供のころには、
まだ薩摩における郷中教育の伝統が受け継がれていた。
その教育を通じて、
「義の為に命を惜しむな」
「人に負けるな」
「弱い者いじめをするな」
「議をいうな」
などの、薩摩隼人の精神を叩き込まれた。
・彼のもう一つの原点は、
血盟団事件で逮捕された後の8年6か月に及ぶ獄中生活と
その間の徹底した座禅修行である。
・彼は「小菅は自分を鍛える道場だった」
と語っていた。
寝る時間がないほど坐禅に専念した。
また飯炊き、封筒づくりなどの刑務所の労働は、
禅寺での作務と心得ていた。
・作戦の鬼、陸軍随一の頭脳といわれた小畑敏四郎は、
戦争末期、近衛、吉田茂などと連絡を取り合い、
終戦工作に邁進した。
また終戦直後の内閣では国務大臣として活躍。
こうした活動を通して小畑は四元とも知り合った。
・坐禅、そして坐禅の日々。
・獄中は四元にとってまさに禅の道場であった。
第一食事をすることに困らないし、娑婆の喧騒もない。
禅寺で修行する雲水のように自分を徹底して
鍛える格好の場になったのである。
・彼は、朝起床と同時に冷水浴をした。
・「坐って数呼吸したらもう朝になっていた」
彼は当時のことをよくそう言っていた。
それほど一心不乱に坐り、禅定すなわち、
心を静めて一つのことに集中して、
宗教的な瞑想状態に入っていたのである。
・「吉田茂さんはわがままで傍若無人な面はあったが、
こと国のことになると自分のことは何もなく、
どうしたら日本がよくなるかばかり考えていた。
政治の判断に私利私欲がなかった」
(四元談)
・わたしは四元に
「宰相の条件としてただ一つ挙げるとすれば何になるでしょうか」
と尋ねてみた。
するとその時言下に、
「それは器だ。人間のスケールだ」
という答えが返ってきた。
また、それも
「私心や私欲を捨てれば、人間の器が大きくなる」
ということだった。
※コメント
激しい人生だ。
そしてその中に静寂がある。
このような人生は勉強になる。
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