◆田中義厚『創業者列伝:根津嘉一郎、山下亀三郎、鮎川義介』を読み解く

 

※要旨


★根津嘉一郎


・根津財閥創始者。


・「内に消極、外に積極」の戦略で
「東洋の鉄道王」と呼ばれた巨人。


・「ボロ買いいちろう」
と笑われた根津であったが、
繊細と大胆を巧みに使いこなす経営術で、
買い漁った業績不振会社をことごとく再生させていった。


・根津はいう。
「まずどこに無駄があるか、どこに不正があるか、
どこに不合理があるか、それを見つけ出して、
その病原を退治することが一番近道である」

 

★山下亀三郎


・山下汽船創業者。


・人脈、情報、決断力を発揮し、
時代の波に乗った海運界の寵児。


・四方を海に囲まれ、海事が重要な役割を持つ国日本。
三菱三井が幅を利かせる海運業界に割って入り、
一代で「不定期船の雄」となった風雲児の生涯。


・「やり遂げる」ことこそ仕事師の信念だ。


・「仕事をする者は、思いついたことは一つ一つ、
たとえ何年かかっても、どうしてもこうしてもそれをやる、
『遂げる』ということが仕事師の信念である。
私たちのような事業をもって終始している者は
自分で行わなければならない」
(山下亀三郎)


・製紙会社、紙問屋、貿易商など
職を転々とした放浪の20代。


・情報力と決断力、実行力でピンチを抜けてチャンスを招く。

 

★鮎川義介


・日産コンツェルン創始者。


・実業のみならず政界にも打って出た
ベンチャーキャピタルの先駆け。


・「おれは金持ちになるまい。大きな仕事はしてやろう」
のちに「昭和の新興財閥」を築き上げた鮎川は、
身分を隠した一職工としてのスタートを選んだ。


・米国で一労働者として働き、帰国後、戸畑鋳物を設立。


・自らの考えで行動し、
その体験を基に新たなアイデアを生み出していくという実証主義こそが、
義介の波瀾に満ちた人生の原動力だった。


・明治の元勲のひとり、井上馨は母方の大叔父に当たり、
青年時代は井上の書生として過ごしながら、
さまざまな薫陶を受けた。


・東京帝国大学機械科を卒業後、
エンジニアを志し、井上が薦めた三井財閥入りを断って、
芝浦製作所の職工として社会人としてのスタートを切った。
身分を隠して一職工の道を選んだのは、
「自らの体を使って技術を体得したい」
という思いからだった。


・機械、鍛造、板金、組み立て、鋳物などの工場を転々として
働くと同時に、東京近郊の工場を見学してまわった。


・2年間で、その数70から80か所。
その結果、次のような結論を得た。

「日本で成功している企業はすべて西洋の模倣である。
ならば日本で学んでも仕方がない。
アメリカに行こう」


・後に多くの企業を買収・再生して
「昭和の新興財閥」といわれた日産コンツェルンを
築き上げることになる義介だが、
彼の人格の原型は「金儲けには無頓着なエンジニア」である。


・その人格を形成する大きなきっかけになったのが、
井上馨が創設した毛利家時習舎での経験だ。


・日産グループを満州に移動、
満州重工業開発の総裁に。

 

 

※コメント
破天荒な経営者がいた明治時代。
とてもおもしろくやる気と元気を与えてくれる。


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