◆北康利『最強のふたり:佐治敬三と開高健』を読み解く

 

※要旨


・開高健(かいこう・けん)という男は、表面上豪快にふるまっていたが、
むしろ壊れやすいガラスのような感性を持ち、
アメリカの国民作家アーネスト・ヘミングウェイにも似て、
性格の根本に繊脆なところがある。
旧制中学だった戦中戦後に味わった辛酸は、
彼の心に大きな傷跡を残していた。


・彼の半身と言ってもいい「ある男」の生き方を通じ、
誰よりも高く跳ぼうとすれば土に額をこすりつけ、
地を這う蟻をながめねばならないという確信が、
彼のなかにあったのだ。


・その男の名は、佐治敬三(さじ・けいぞう)。
サントリーの2代目社長として辣腕をふるい、
会社帰りにバーで一杯という文化を我が国に根付かせ、
「サントリーオールド」を生産量世界一のウイスキーに
育て上げた男である。


・174センチの長身に黒縁のメガネ、
当時の経営者としては異例の長髪をなびかせ、
早くから流行のカラーワイシャツを着こなしていたダンディな紳士だ。


・サントリーがまだ寿屋と呼ばれていた時代、
佐治は失職中だった開高を拾い上げ、
宣伝部のコピーライターとして、
はたまた伝説のPR雑誌『洋酒天国』の編集長として
活躍する場を与えた。


・作家志望だった開高に、二足のわらじをはくことを許したのも彼である。
おかげで開高は在職中に芥川賞を受賞することができ、
本格的な作家デビューにつながった。


・開高は佐治を必要としたが、佐治もまた開高を必要とした。
やがて彼らは経営者と社員という枠を越えた友情で結ばれていく。
そんな2人の関係について、佐治は次のように述べている。

「弟じゃない。弟といってしまうとよそよそしい。
それ以上に骨肉に近い、感じです」


・名経営者と言われる人間には、
ある種の「狂気」がつきものだ。
万人が納得できるような経営戦略だけで
競合他社を出し抜けるほど世の中は甘くない。
それに彼の「狂気」はスケールが違う。


・佐治は、
「やってみなはれ!」
を合言葉に、新規事業にも積極果敢に挑戦を続けた。


・大波乱を巻き起こすような決断こそ、
この会社の長い歴史のなかに
繰り返し立ち現われモチーフ(主題)であることを、
佐治は「断絶の決定の鎖」という荘重な言葉を用いて表現したのだ。


・寿屋創業者の鳥井信治郎(とりい・しんじろう)は、
「赤玉ポートワイン」が売れに売れていたときに、
あえてリスクの高いウイスキー事業への進出を決めた。


・そして息子の敬三は、日本のウイスキーを世界の
五大ウイスキー(スコッチ、アイリッシュ、アメリカン、カナディアン、ジャパニーズ)
の一角に食い込むところにまで成長させる。


・しかし彼はそれだけで満足しなかった。
「サントリーオールド」の売り上げが世界一になろうというとき、
あえてビール事業への進出を決断するのである。
これこそは、佐治敬三の「第二の草創期」を
現出するために下した「断絶の決定」だった。


・陰気なリーダーに求心力は生まれない。
彼がいるだけで周囲が明るくなった。
人が集まった、にぎやかになった。
サントリー美術館、サントリーホールなどの文化事業にも、
惜しげもなく金を出した。
でっかく儲けて、でっかく散じて、
世の中を明るく照らしたのである。


・サントリーという社名の由来が、
ヒット商品である赤玉ポートワインにちなんだ太陽(赤玉)の「サン」と
創業家の「鳥井」からとった「サン鳥井」だというのはよく知られている。


・佐治敬三という男は、
まさに太陽のような存在であった。
いや、太陽であろうと努力した人であったと
言ったほうがいいかもしれない。
彼もまた、じつは開高同様の繊脆さを内に秘めていたのである。


・だからこそ理解しあえる部分があったのは間違いあるまい。
豪快に見えて、気配りは人一倍である。
情にもろく、人一倍笑ったが、人一倍涙も流しもした。


・これは、高度成長期という混沌と矛盾がまじりあった時代に、
不思議な運命の糸で結ばれながら、
破天荒で「ごっつおもろい」生き方をしてみせた、
二人の友情の物語である。


・元祖やってみなはれ。
鳥井信治郎という人物は、破格のスケールを持った伝説の起業家であった。
「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助にとっても
仰ぎ見る存在であり、
「鳥井さんには横綱格の貫禄がありました」
と最大級の賛辞を贈っている。


・信治郎は1879年、両替商の鳥井忠兵衛の次男として、
大阪の釣鐘町に生を享けた。
ここは、江戸中期から大正期まで日本の商業の中心地であった
大阪の中でも、とりわけ商人の町として栄えた「船場」と呼ばれる地域である。


・商家では長男が大事にされ、
次男以下では扱いがまったく違う。
信治郎は大変に勉強がよくでき、
小学校を飛び級して大阪商業学校に進んだが、
一年ほどしか通わせてもらえないまま、
13歳のとき、丁稚奉公に出された。
奉公先は、道修町にある薬種問屋だった。


・道修町の商家の凄みは、取扱商品こそ変遷があるものの、
その多くが現在まで生き残っていることだ。
薬種問屋は「薬九層倍」(くすりそうばい:薬の売値は原価の9倍という意味)
という言葉があるほど利の厚い商売である。
彼らが生き残った秘密の一端はまさにそこにあった。


・そもそも船場商人は儲けに対して貪欲だ。
「衣食足りて礼節を知る」などと難しい言葉で語らずとも、
まず儲けることありきだという認識は徹底している。


・佐治敬三の長男である佐治信忠は慶應義塾大学を卒業後、
UCLAの経営大学院に留学し、MBAを取得して帰国した。
学んできたことは、M&Aを含むアメリカの最新の経営ノウハウだ。
すぐにでも実地に生かしてみたくてうずうずしていたはずだが、
すぐにサントリーに入社したわけではなかった。


・以前から
「他人の飯を食ってこい」
と言っていた敬三は、親しい盛田昭夫に頼んで、
ソニーに就職させる。
秋葉原の電気店の店頭に立ち、
セールスのむずかしさを体で学んだ。


・その後、仙台に転勤となり、
自由を謳歌して羽目をはずしそうになったため、
修業を3年で切り上げさせた。
こうして信忠はサントリーに入社する。


・最初配属になったのは経理部門であった。
モノだけでなく、カネの動きを知るのは経営者の学ぶべき必須科目だ。

 

・佐治敬三は絶えず、
「金太郎飴になったらあかん」
と繰り返し、現場もそれに応えようとした。


・積極的に何かをしようとして失敗し、
それを正直に告白した人に対しては、
賞を贈ってみんなで笑い飛ばし、今後の教訓としていけばいい。
そんな明るさが、この会社には横溢していた。


・そして敬三もまた、日々「エドヴァス・ノイエス」を見出すべく
知恵を振り絞っていた。

 

・彼はメモ魔である。
何か思いついたらすぐその場でメモをとる。
自動車に乗っていても飛行機に乗っていてもそれは同じ。
興味を引いた新聞や雑誌の記事には線を引き、
「よそに負けるな」「宣伝にどうか?」
「至急研究!」といった走り書きをして、
Kにマルをした「敬三サイン」をして部下に回す。


・そのサインが「め」のように見えることから、
「マルめメモ」と呼ばれていた。
一年間のメモを集めると、
その厚さが25センチにもなったという。

 

・開高健は、編集者のための心得を説いた。
いわゆる「出版人マグナカルタ9章」だ。


1.読め。

2.耳をたてろ。

3.両眼をあけたまま眠れ。

4.右足で一歩一歩歩きつつ、左足で跳べ。

5.トラブルを歓迎しろ。

6.遊べ。

7.飲め。

8.抱け。抱かれろ。

9.森羅万象に多情多恨たれ。

右の諸則を毎日3度、食前か食後に暗誦、服用なさるべし。

 

 


※コメント
心地よいほどのスケールの大きい男たちだ。
たしかに現在もこういう人はいるのかもしれない。
彼らのような高いレベルの考え方を目指したい。


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