◆大村大次郎『龍馬の家計簿』を読み解く
※要旨
・本書は、坂本龍馬の人生を金銭面から見ていこうというものだ。
・龍馬は、一介の浪人だった。
浪人として、薩長同盟の仲立ちをしたり、
私設海軍の海援隊をつくったり、
大政奉還を献策するなど、
幕末維新期に大きな足跡を残した。
・彼の大事業の数々を前にしたとき、
一つの大きな疑問が生じないだろうか。
彼がどうやって資金を調達していたか、ということである。
・龍馬の経済生活を、詳細に検討していこうというのが、
本書の趣旨である。
・彼は金銭にきっちりした性格だったようで、
様々なところで金銭に関する記録が残っている。
たとえば、彼の書いた手紙は、
現在100通以上残されているが、
その中には金銭に関する記述が数多くみられる。
・彼は大きな事業をいくつも成し遂げているが、
決してスーパーマンではなかった。
彼の事業の一つひとつは大きな難題だった。
かれはその難題を一歩ずつクリアして、
結果を出し、次につなげていく。
そこには数々の挫折もあるし試行錯誤もあった。
・龍馬の金銭面を丹念に見ていくと、
そういう姿が浮かび上がってくるのだ。
彼は決して、神が魔法を使うようにして
楽々と数々の事業を成し遂げたわけではない。
・常人と同じように迷い、嘆きながらも、
夢や希望を少しずつ実現していったのである。
その結果、数々の大事業を成し遂げることになった。
・商人の血が半分入っていた龍馬。
・龍馬という人物は非常に経済感覚の発達した人だったといわれている。
薩長盟約の仲立ちや、大政奉還を実現させるなどの
「志士活動」にしっかり功績を残す一方で、
海援隊をつくり総合商社の先駆けとなるような事業を行ったり、
北海道開発を計画していたりもした。
・彼がほかの志士たちと違って、経済感覚に優れていたのは、
その生い立ちが大きく関係している。
彼には、商人の血が半分入っているのである。
・近代に入ってから坂本家は、商人になっていた。
高知城下に出て「才谷屋」という質屋をはじめ、
のちに造り酒屋も開く。
当時の、造り酒屋というのは、豪商と同義語だ。
・酒造りというのは、酒蔵などの大規模な設備が必要であり、
しかも大量の米を使う事業である。
資金力がなければ、絶対にできない商売だった。
・もちろん、才谷屋も間違いなく豪商だった。
数棟の酒蔵を持ち使用人が十数人もいる、
土佐でも屈指の商人だったとされている。
そして龍馬の4代前に、才谷屋は分離する。
・郷士坂本家は、身分は低いとはいえ、
経済力は決して小さくなかった。
なにしろ、土佐有数の豪商の分家である。
龍馬が生まれた当時、坂本家は、
領地161石の家禄を持っていた。
・龍馬の坂本家は、本家が商人なので、
親戚にも商人が多かった。
その中でも、龍馬の継母の婚家の川島家は、
土佐藩の富裕な御用商人だった。
・龍馬にとっては、この継母の婚家の川島家は、
親戚の中でも居心地がよかったようで、
ときどき遊びに行っていたという。
龍馬はこの川島家から多大な影響を受けたと見られる。
・川島家は、西日本を中心として手広く廻船業を営んでいた。
龍馬が船や輸送業に強い興味を持ったのには、
間違いなく川島家の存在があったはずだ。
・また彼は、脱藩する際、
旅費を川島家の当主、川島猪三郎から借りていたとされている。
・志士と商人の「持ちつ持たれつ」の関係。
・幕末の志士たちの活動に「侠商」といわれる
商人たちの支えがあったということは、
よく知られている。
・商人たちがなぜ志士に肩入れしたかというのは、
それぞれの理由があるので、一概には言えない。
ただ大雑把に、2つの要因があるように思われる。
・一つは、当時の西洋諸国の動向は、
武士商人問わず知識階級にとって共通の不安材料であり、
志士たちの活動がされらの問題を解決するのではないか、
と期待したということ。
・もう一つは、志士たちは全国を駆け回るものなので、
志士たちを使って各地の情報を掴みたかったということである。
商人にとって各地の情報は仕事上、不可欠なものだった。
電話などの通信手段がなかった当時、
志士たちの情報網は、
商業上とてもメリットがあるものだったのだ。
※コメント
大きなプロジェクトを完遂するためには、
経済センス、会計の知識は不可欠だ。
どんな職種でも簿記を学ぶべきだ。
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