◆河合敦『豪商列伝:なぜ彼らは一代で成り上がれたのか』を読み解く

 

※要旨


・島井宗室は、先見の明に長けた「海の豪商」だ。
戦国から江戸初期にかけて活躍した博多商人、茶人である。
博多で酒屋、金融業、倉庫業を営むかたわら、
日朝貿易を行って巨万の富を築き上げた。


・戦国大名の大友宗麟、織田信長と交わる。
信長死後は豊臣秀吉の保護を受け、
南蛮・朝鮮などと貿易を行い、栄華を極めた。


・また、千利休と親交が深く、茶の湯にも通じていた。
関ヶ原の戦いあと、黒田氏の福岡城築城などに協力した。


・宗室はまた、しっかりとした人生観や生きる指針を持っていた。
次が彼の遺訓である。


「40歳になるまでは、大盤振る舞いをしてはいけない。
親類でも一年に一度程度にしておくべきだ。
また、自分の持っている逸品を人に見せてはいけない」


「次のような人と仲良くしなさい。
商い好き。奥ゆかしい人。律儀な人。
心が美しい人。
次のような人と付き合ってはいけない。
人とよく争う人。ものを咎める人。
悪口を言う人。華麗な人。大酒飲み。
うそつき。権力に取り入る人。流行を追う人」


「40歳になるまでは贅沢はするな。
自分の分際をわきまえ、とにかく稼ぐことだけに専念せよ」


「お金があるときこそ、商売に精を入れ、
懸命に稼ぐべきだ。
お金があるときに油断して欲しいものを買って、お金を使い果たすと、
あとは転落する」


「会合で口論やいさかいが起こったとき、
すぐに席を立って帰ってしまえ。
喧嘩やもめ事が起こっているところへ出るな。
たとえ人が言いがかりをつけてきて
少々恥辱を与えられても、知らん顔して返答せず、
取り合わないようにしなさい。
他人が卑怯者、臆病者とさげすんでも、相手にしてはいけない」

 

・淀屋常安は、大坂の陣で徳川方につき
特権商人の地位を得、江戸期になって幕府の許可を得て
中之島の開拓事業で財を成し、米相場も開いた。


・常安は、羽柴秀吉が大坂城の築城を始めたのを見て、
築城工事に少しでも参画して金銭を儲けようと考えた。
大和から大坂に出て十三人町に「淀屋」と称する店を構え、
材木をさばくようになったのである。
ただ、材木といっても、
川の増水で流れてくる流木を拾い集め、
それを加工して販売するという、
ささやかな商売であった。


・また常安は、大坂の陣における戦場の後始末を引き受けている。
自ら幕府に願い出た。
そして許可を得ると、兵士たちが落としたり、
遺していった甲冑や刀、槍、鉄砲を拾い集め、
これらを売り払って大儲けしたと伝えられる。


・常安は、中之島の開発を幕府に願い出て許可を得ている。
のちにこの中之島には諸藩の蔵屋敷が建ち並び、
大坂の中心になっていった。


・常安は、材木販売、土木事業、土地開発、干物管理、
古武具の売買など、次々と新事業を開拓していき、
いずれもそれらを軌道に乗せていた。


・彼は秀吉、家康と、巧みに政治権力と結びつきながら、
大胆なパフォーマンスと見事なアイデアで商売を広げ、
一代にして豪商に成り上がっていった。
だが、成り上がり者だったにもかかわらず、
常安は死ぬまで奢らず、慎ましい倹約生活を続け、
富や財宝が集まれば、次々と蔵を建てて、そこに保管しておいた。


・「働くのが人間の楽しみである」
(大倉喜八郎)
仕事は無限の感快。


・大倉喜八郎は、大実業家の渋沢栄一とたいへん気が合ったようで、
帝国ホテル、東京瓦斯、日本土木会社、札幌麦酒会社、
帝国劇場などを渋沢と共同で次々と共同で立ち上げていった。
この男にとって、仕事が唯一の生きがいだったのである。


・喜八郎は、次のような語録を残している。


「いかに奮闘しようが、いかに努力しようが、
なんの苦痛も感じなかった。
わが身のためである、人のためではない。
働けば働くほど楽しみになり、努力すればするほど、
胸中無限の愉快を感じたのである」


「働くのが動物の本能であって、
人間は働くためにこの世に生まれてきているである。
人間は死ぬまで働かねばならぬ、
いな働くのが人間の楽しみである」


「自分の額に汗し、一生懸命に努力してこそ
無限の感快があるのである。
努力は自分の運命を開拓し、
国家富強の源泉であることを忘れてはならない」


「事をなすにあたってはとにかく迷わず前進せよ。
責任感を持って商売に臨めば、
自ずと成功はやってくる」


「一度約束をしたことは、
首を刎ねられても必ずこれを実行する」


・たとえ首を刎ねられようとも、
一度約束したことは実行する。
そうした責任感を持って商売にあたったからこそ、
大倉喜八郎は一代で大商人になることができたのである。


・浅野総一郎は、仕事人間であった。
「人間は、一日4時間以上寝ると馬鹿になる」
というのが信念で、
晩年に浅野財閥を作り上げてからも、
働くことをやめようとしなかった。


・浅野は、毎朝4時に起きて5時から朝風呂に入り、
朝食をとりながら社員と打ち合わせをして、
6時から7時の間に数名の客と面談した。
9時半には丸の内の事務所に出勤、
午後からは各工場を丹念に視察して歩き、
夜は社員との面談や懇親会に出席するなど、
休みなく動き続けた。


・浅野総一郎の語録は、次の通り。


「人間は働きさえすれば生活の出来ないことはない。
一生懸命になって稼業に精励勤勉さえすれば、
立派に独立ができるのである。
人が8時間働くところを、10時間勉強すれば、
それだけで多くの収入を得られるのである。
10時間勤勉して生活に不足を感じる場合は、
12時間働けば、生活に不自由することはない」


・総一郎は仕事の鬼であり、
仕事こそが、この男の生きがいであったのである。

 

・「稼ぐに追い付く貧乏なし。
人が8時間働くところを、
10時間勤勉すれば、多くの収入を得られる」
(浅野総一郎)

 


※コメント
江戸時代や明治時代の実業家たちからは、
多くを学べる。
たとえ時代は変わっても、
その商売の精神は、今も変わらない。


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