◆奥瀬平七郎『忍術、その歴史と忍者』を読み解く


※要旨


・奈良朝は、わが国の古来文化(神道文化)と、新輸入の中国文化(仏教文化)とが混交し、
一体化していった過程の時代である。
宗教対立の必要性から中国兵法を前代よりうけつぎ、
これを山伏兵法として発展させた修験者の活躍が、
忍術形成過程の一大事象として当然追求されねばならない。


・忍術の種子「山伏兵法」は平安期に入って、陰陽思想を吸収しながら、
密教の拡大とともに全国に広がっていった。


・文献に現れてくる忍術の最古流は、義経流忍術の伝書である。
義経というのは、有名な源氏の武将で、平家追討に偉勲をたてた源義経のことである。
義経の兵法の師は誰かというとこれもまた当然、山伏修験、山伏兵法にぶつかざるを得ない。
鞍馬八流がそれである。


・義経は幼時、鞍馬山の寺院、鞍馬寺に稚児として成長している。
この時代に義経は、僧正ガ谷の天狗たちから武芸と兵法を習い、その道の達人となった。
鬼一法眼という天狗の大将から「六韜三略」の虎の巻を授けられた。


・鞍馬山には以前から修験の道場があったので、
義経は山伏修験者にとりかこまれた環境のうちに人となったわけである。
彼は、鞍馬八流の皆伝者で、兵法・武術・忍術に通暁した武将だった。


・鎌倉時代から南北朝時代にかけては、文化史的にみると、禅の時代である。
禅はもともと宗教とはいうものの、その内容は哲学的であって、
当時の武士たちは、処世修養の法典としての禅に大きな魅力を感じたのである。


・忍術は、この禅宗からも、きわめて大きな影響を受けている。
その最大のものは「当意即妙、円転洒落の心境を忍術の要諦なり」とする考え方である。
禅が観念の固定化を忌み嫌うのは当然であるが、忍術もまたこれを最大の禁忌としている。


・鎌倉末期、北条政権没落前後の動乱を契機として、兵法の天才、楠木正成が世に出ている。
伊賀・甲賀の忍者は、山伏とともに、この正成を媒介として、南朝方の一勢力であった。
忍術の古流に、楠木流忍術がある。
義経流につぐ第二の古流である。


・正成はその幼時から少年期までを河内の国の密教の寺院、観心寺で送っている。
義経がその成長期を鞍馬寺で過ごしたのと同様の過程を、正成も踏んでいる。
正成は義経とちがって武芸の達人にはならなかった。
その代わり、彼は義経よりもはるかに偉大な兵学者になっていった。


・正成は伊賀忍者にスッパという名前を与え、16名ずつ、3班に分けて、京、浪速、兵庫に常駐させ、
常にその情報を得て、その戦略を練ったのである。
そして、対北条、対足利作戦において、数々の名策略を展開した。
義経を育てた山伏僧は、100年後には日本兵学の完成者、楠木正成までもその手で育て上げる光栄を担ったのである。


・徳川家康ほど巧みに忍者を使った者は他にはいないだろう。
家康は戦闘以外の政治的手段にも忍者を使うことが巧みだった。


・織田・豊臣時代は、戦国期に完成された忍術がもっとも華やかに活動した時代である。
日本の最大最高の忍術組織(伊賀、甲賀流)はこの時代、徳川家康の手にほとんど独占的に掌握されている。


※コメント
忍者の情報収集力、工作活動によって天下が取れるか否かが左右される。
それをいかに掌握するかが、いつの時代もポイントである。
彼らの重要性を認識したものが、サバイバルできるのだ。