(注!)このブログが初めてのお方は、
必ず「~はじまり第1話」からお読み下さい。

今回のお題

「前回からの続き~聖書の戒律と、マナという食べ物の正体」

 

こんにちは。マツダです。

今回のお話は前回の続きからとなります。

 

 

 

という訳でたかまちゃん、

早速ですが前回の続きのお話をお願いします。

世界の色んな神話や聖書やら仏典で、変な宗教的詐欺・詐術に引っかからないためには、その知識に触れる時の態度・姿勢・読み方が重要だと言ってましたよね。つまり「人の頭の中で起こる精神作用と、現実に起こる物理作用を混同しないように」と。


まぁ、そーぢゃの。

えっちな事考えてもええが、

実際にやると痴漢で捕まるからの!

 

いつものアレw

 


そのネタは、もういいって(T▽T)

で、また話を戻して、例えばイエスの奇蹟は物理次元で起こった奇蹟ではなく、精神的、または意識成長・進化の作用機序の事だとたかまちゃんは言ってましたが、それは分かったんですけれども、しかし、具体的に何故それが精神面のものであると見分けがつくんですか?それが一般人には分かりづらいから、宗教に詳しくない普通の人は、利用され、騙されるのではないのですか?


あぁ、それな。

実はその見分け方というのは、これも知ってしまえば簡単な事ぢゃ。旧約聖書、つまり初めのモーセの五書、ペンタトーチ等に堂々と奇蹟の力(魔法・魔術・まじない)を信じちゃいけません、またそういう力を使って人を虜にしたり、陥れてはいけませんよ、と記してある。つまり、宣教師やクリスチャンともあろう者が聖書の戒律を破って奇蹟の力を謳うなんてこと自体、明らかに間違いだとすぐに分かる。「奇蹟」的な力とは色々あって、それを詳しく戒めている記述が、聖書にはちゃんと明示されておる。ぢゃからそれを知ってれば、奇蹟の超能力とかエスパーとか霊能力者とか言ってきても、騙される事はない。


ほう!それは一体ドコに、

どう記されているんですか?


まぁ~例えば、

↓(申命記18章)、
◆あなたがたは、卜筮する者、邪法を行う者、まじないする者、魔術・魔法を使う者、法印を結ぶ者、憑鬼する者、巫覡の業をなす者、死人に問ふことをする者、彼らに従って汚されてはならない、
◆汝等、憑鬼者を恃むなかれ、卜筮師に問ふことを為して之に身を汚さるる勿れ、
(レビ記19章)
◆憑鬼者または卜筮師を恃みてこれに従う人あらば我が面をその人に向け之をその民の中に絶つべし
(レビ記20章)


と、ここまでハッキリと書いてある。

 


(つд⊂)ゴシゴシ(;゚д゚)エエーッ!!(つд⊂)ゴシゴシ (;゚ Д゚) エエエーーッッ!!!

あのーコレって…マジっすか?

でもこれは、現代のスピリチュアル・陰謀論者さんたち、
俺も含めて、もう完全にアウトじゃないですか。

 ・゚・(ノ∀`)

はっはっは。まぁそうぢゃが、でも黙っとけば一般人にはバレんですむし、バラすと金儲けや商売できんからの。現代では魔女狩りもないから心配ない。それに、自分はユダヤ教やキリスト教ではないって言っておけば、自由にできる。よって今の時代、みんな超能力者や霊能力者に、憧れもするぢゃろうて(笑)。みんな特別な、特殊(スペシャル)な人になりたがる。よくいえば、好き勝手やれる、ラッキーな時代ぢゃの。


まあ確かに、今のスピリチュアルは、

ごた混ぜの自由に何でもアリみたいで、いい感じですが。

(;´^_^`)

現代なんてそんなモンぢゃw
しかし、あえてその戒律めを破り、

聖書や神話や仏典を誤読しまくって、

荒唐無稽な虚言を弄し金儲けする!

この背徳感!快楽を貪れるこの高揚感!
つまり、現代のスピ陰謀論都市伝説は、

例えると、背徳感ほとばしる、

欲望全開の魅惑的なエッチで楽しい、
ドキドキワクワクの、不倫みたいなもんと思えばよい!


例え方が、クズすぎる!(T▽T)

ま、要するに、聖書(旧約)にそう書かれてある戒律を、イエスがわざわざ破って、これ見よがしに物理次元で超常的な奇蹟や魔術を、すすんでやるはずがないという具合に、普通に考えれば判る筈なんぢゃよ。洗脳なんかされず、自分で考えればの。分かりやすい言い方で言うと「イエス様が不倫なんかするはずがない!」ってキャラ推しの信仰心を強めれば騙されんはずぢゃ(笑)。


確かにイエス様に、

昼ドラの不倫キャラは似合いませんが、
引き続いて、そのゲスい例えは、いかがなものかと。

( ̄д ̄)r


それでもまだスピ陰謀論信仰のお熱があるんなら、逆に背徳感にまみれたイエスのエロ同人ネタを妄想するのも良いかもしれん!物理次元はともかく、妄想は自由ぢゃからな!陰謀論はエロ同人誌として読むのも楽しいかも知れんぞ。あくまでフィクションとして!あちしもエロ漫画好きぢゃから、そんな感じでもOK!

なんつってな♪

 ꉂ(σ▰˃̶̀ꇴ˂̶́)σ✧

あのーたかまちゃん、興奮して盛り上がってるトコ悪いんですが、イエスが、

「心のうちに姦淫する者は、すでに姦淫する者なり」って戒めてますけど… 


ほう、よく氣がついたのその矛盾に。普通の善人ヅラした正義のナントカ人とか、ナントカ戦士とか、ナントカワーカーとかナントカシードとは、氣がつかぬ視点ぢゃからの。つまりエロスキャンダルが話題になったりエロスキャンダル本が売れるのも、陰謀論が話題になったりるのも当然かもの(笑)。

で、このイエスの言葉ですけど、たかまちゃんが言う「人の頭の中で起こる精神作用と、現実に起こる物理作用を混同しないように」の逆になってての矛盾、どう解釈すればいいのかと。

それも簡単ぢゃ。人の執着と欲望、正義について言っておるんぢゃよ。あと例えばイエスや仏陀は基本的に「対機説法」ぢゃから、もともと一貫性がなく矛盾だらけぢゃ(笑)。で、この場合不正やスキャンダル、それについて人の思考や大衆の意識は欲望によって動く事を言っておる。そして執着が生まれ、他人を裁きたい欲望、つまり人や大衆に対して正義による裁きが正当化される。そしてめでたく人の心は洗脳支配されコントロールされるようになる訳ぢゃ(笑)。それに関連する他のイエスの言葉に、
「汝らのうち、罪なき者、石もて撃て」や

(ヨハネ8章1)
「なにゆえ兄弟の目にある塵(ちり)を見て、おのが目にある梁(うつばり)を認めぬか」
(マタイ7・5ルカ6・41・42)

となる訳ぢゃな。

まぁ完璧な人間なんていませんから、

当たり前ですけど、そう言われてみればそうですね。

罪のない人間なんていない。それに今、

たかまちゃんが言った裁きたい欲望ってのも、

イエスが、

「汝ら人を裁くな、

裁かれざらんためなり。

己が裁く裁きにて、己も裁かれ、

己がはかる量りにて、己も量られるべし」

(マタイ伝7・1~2)

って言ってますから。そうなんだろうと思います。


それで「心のうちに姦淫する者は、すでに姦淫する者なり」は、
自分がどう正しい事を「思って」生きていようが、そんなものは現実的に社会的な因果関係の前では意味をなさん、という事ぢゃ。
どう正しくふるまっていようが、自分自身がしている事は現実の因果関係によって決定されている。人は罪を犯していないと思っていても、間接的にはもう既に罪人なのだ、という事ぢゃ。哲学的な用語でいえばL・アルチュセールの「構造論的因果性・重層的決定」というが。イエスはその事をいっておる。つまり絶対的な正義というものはない。イエスが「正義の絶対性」と「裁き」を否定するのは、人々をある倫理性に振り向かせるために言うておる。


そのイエスがいう、倫理性っていうものは、一体どういったものなんですか?

例えば、ある人が一生のうちで、動物や人を殺さないで済む悠々とした生き方ができるのは、単に地位とか権力とか金に困ってない裕福な環境があって、悲惨な目に遭わないで済む様な状況に恵まれているからぢゃ。ところが、それを自分の高邁高潔な意志とか使命だとか思い込み、よって自分は「特別に」選ばれた「正義の執行者」(神の裁定者)であって、愚かな者どもを裁いてやって当然、と更に躍起になる。今はやりのナントカワーカーとかナントカ戦士とかナントカシードとかの(笑)。世界に蔓延る悪を、神による光の正義で、地獄へ突き落としてやるっていう「欲望」に取り憑かれる。それは歴史の繰り返しで、いわば競争・狂躁・支配者のやっている事と同じで光でも正義でもない。実は人類の歴史はずっとこのパターンの繰り返しぢゃ。

だが、しかし、イエスは、
それを、真っ向から否定する!


おお!イエス様、マジかっけー!!


で、こうなる訳ぢゃの。

↓マタイ伝9章↓
《イエスが食卓についておられた時の事、大勢の税金取や罪人も来て、イエスや弟子達と同席していた。パリサイ人はこれを見て、弟子たちに言った。「なぜあなた達の先生は、税金取りや罪人と一緒に食事をするのか」聞いてイエスは言われた。「丈夫な者に医者はいらない。医者が必要とするのは病人である。【私は憐れみを好み、いけにえを好まない】という神の言葉の意味を、よく勉強したがよかろう。私は正しい人を招きに来たのではない、罪人を招きに来たのである」》


人って自分では、主体的にどれだけ正しいって思っていても、
そんなモンは、まったくアテにんらんって事を言ってるんでしょうか?
正義と思っていても、なぜ人はこんなに長い歴史を繰り返してまでして、

正しさを振りかざし、争い、差別したり、裁いたりして、ずっと何回も間違っちゃうんでしょう?


単純な事に氣がつけないだけぢゃ。

「正義」や「裁き」や「差別」というのは人間の「自我の欲望」(特別意識)から生まれて来る、という事ぢゃよ。つまり人類の正義の数だけ欲望があり、人類の欲望の数だけ正義が作られる。

イエスはそれに氣づきなさい、と言って居るだけぢゃ。

例えば、動物愛護!殺処分ゼロ!とかいいながら、マッチングアプリのプロフィールで、肉料理やお寿司が大好きです♪誰かオゴって~♪とか言う娘もおるし、或いはベジタリアンやヴィーガンが絶対正しいと主張する人々も、植物と動物の「命」の上下関係(差別)をつけているにすぎん。何を食べようと貴重な「命」を頂いている事には変わりないはずなのに、ぢゃ。

確かに、そう言われてみると「動物は可哀そうだけど、植物は可哀そうじゃないから殺してOK」っていう発想じたい、人間側の一方的なワガママ(欲)ですね。
(;´^_^`)


要するに「自我」(特別意識)による希望や正義や裁きとは、一見、カッコよく輝かしい理想や希望に見えて、個人的な欲望や執着の、自我の生み出す、魔のトリックなんぢゃよ。よって、そこに閉じ込められ囚われた、
人達の事を、

「魔トリックス」という!!

肝心なトコロを、ダジャレで逃げんなつーの!

 

うーん、まぁソレはソレとして、

つまり聖書の道徳性、自我の欲望を戒める、そういう戒律を知る事で騙されずにすむ、という事は何となくわかりました。
でも、それだけの問題ならともかく、何故、前回たかまちゃんの言った「キリストが魚やパンを無限に配ったという奇蹟は、実は奇蹟でも何でもなく、さかな=名=言霊と穀物=五穀=五母音・陰陽五行・五大の教えを使い、ひいては、神の言葉(コトダマ)を無限に操作したという」事までが、わかるんですか?ここは自我やら欲望や戒律とはあまり関係ないですよね?


それも同じく簡単ぢゃ。

さっきと同じイエスの「新約」の先輩である、

モーセの「旧約」聖書の方に、ちゃんとヒントが書いてある。


お~やっぱ、旧約聖書が基本なんですね。盲点でした。


↓(出エジプト第16章)
★《その降りた露がかわくと、荒野の表面には、小さく円い鱗のようなものがあり、ちょうど地に結ぶ薄い霜のようであった。
イスラエルの人々はそれを見て互に言った「これはなんであろう」。彼らはそれがなんであるのか知らなかったからである。モーセは彼らに言った、「これは主があなたがたの食物として賜わるパンである。主が命じられるのはこうである、『あなたがたは、おのおのその食べるところに従ってそれを集め、あなたがたの人数に従って、ひとり一オメルずつ、おのおのその天幕におるもののためにそれを取りなさい』と」。
イスラエルの家はその物の名をマナと呼んだ。それは莞荽(いはき・コリアンダー)の実のようで白く、その味は蜜を入れた煎餅(菓子)の如し。イスラエルの人々は人の住む地に着くまで四十年の間マナを食べた。すなわち、彼らはカナンの地の境に至るまでマナを食べた。》
★《マナは、コリアンダーの種のようで、その色はブドラハ・ブドラクのようであった。人々は歩き回って、それを集め、ひき臼でひくか、臼でついて、これをなべで煮て、餅菓子を作っていた。》

(民数記11章)
★《あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。それは、あなたを苦しめて、あなたを試み、あなたがその命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。
それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主・エホバの口から出るすべてのもの(マナ)で生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。》

(申命記8章)


何か一見、お菓子みたいで美味しそうですけど、

でも、これ普通の食べ物じゃないって事ですよね?


ま、説明すると、
神の口から授かる言葉(マナ・真名)とは、

ヨハネ(新約)の所謂「神と偕(とも)なる言葉」で、ギリシャ語でいうロゴスという事にも通じる訳ぢゃ。
申命記の記述で読む通り、マナとは通常の人間が食べる食料などではなく、
精神的な、また意識成長、霊性進化を促す為の食物である事が、ここでわかる。
ブドラクとは宝石の事で、そのマナを日本と同様の勾玉や数珠などを模した擬えであり、
言葉の宝石(言うまでもなく「黄金のマナ壺」からきている)という事ぢゃな。
また、コリアンダー(莞荽・イハキ)とは、「五(イ)十の葉(ハ)の樹(キ)」は五行と五十音の事ぢゃ。つまり世界中の神話にたびたび出てくる世界樹、生命の樹(の葉=言葉)の事であり、セフィロトの樹もここからきている。

そもそも「イスラエル」という言葉には、イスラ・五十の言葉、五十鈴の宮(言霊五十音)から由来し、そして前述の聖書の引用からも判る通り、イスラエルの民は神から授けたもうたマナを挽いたり搗いたり煮たりして餅菓子の様にしていた訳ぢゃ。ユダヤ人の習慣である逾越節(過越祭)では酵母を入れない餅の様なパンを食する祭りがあり、このパンの事をヘブライ語でマツェ(matze)・マッツオ(matzo)という。言うまでもなく古来日本では年の初め米を煮て搗いたり焼いたりして餅にし、神に捧げる習慣がある。ヘブライ語のマツェ・マッツオは、つまり日本の、もっち♪もっち♪した「モチ」からきている。作り方までそっくりぢゃ。神道では咒事としてよく餅を擬えて使う事があり、五十の言葉、つまり五十個のマナ(真名)を材料としてモチに仕立て上げる事がそこに秘められている。

五十個のマナを使って五十段階の操作方法を古神道で禊祓いといい、モチは「百道」の意味である。この「百道」を具現化した機構を古神道で「百敷の大宮」という。ちなみに古事記の一番目の天津神が、天之御中主神で、百番目(天津神の最後)の神が須佐之男命ぢゃ。百の神様の道という訳ぢゃの。
イエスはそれを踏襲するかたちで、神の言葉(はじめに言葉ありき 言葉は神とともにあり)として、その自由自在性(神の言葉の可能性)を証明したという事ぢゃよ。

 

↓略図にすると分かりやすいぢゃろう、ホレ。↓



おおー、なるほど!
視覚化すると、5母音や五行の教えの可能性が、ひらかれて、よく分かりますね~。

 


ま、そういう事ぢゃ。つまり、
世界中の神話や聖書や仏典やらはエロ同人を読む(誤読)感覚で、きっと、これからも、流行るという訳ぢゃな♪萌え萌えーーみたいな!
ꉂ(σ▰˃̶̀ꇴ˂̶́)σ

エロ同人は、

ダメな方の流行り方だろ!

 \( ̄∀ ̄*)


あくまで個人的
に (*´Д`)ハアハア
楽しむくらいが丁度いい感じぢゃ(笑)。陰謀論系列都市伝説系の、宗教の話題やらは、せいぜい、エロ同人誌みたいに楽しむがよい♪

確かに新興宗教にハマって権力に利用されたり、 
搾取され自己破産とかするよりは、まだ健全かもしれませんが(笑)しかし、もうちょっとマシな言い方ありませんかね。 

そう。お主の様に、
自分の好きなエロ同人で、しこしこハァハァとやりまくって、どぴゅっと、数億匹のワンダフルライフを、散財とかする方が「マシ」かもしれんよな~♪

ꉂ(σ▰˃̶̀ꇴ˂̶́)σ✧


だから俺は、

そんな事してないっつーの!!

\( ̄∀ ̄*)

 

注・画像は(たかまちゃんの)イメージですw


はい♪
ティッシュ♥
 

いらんわ!!!

( 」`Д´)」

 

 

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最後まで、お読み頂いてありがとうございます。 

今日のたかまちゃんのお話は、ここまでとなります♪
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(マツダの独り言…ここ数年忙しくて薄い本(同人誌)は買ってない( ^ω^)…)