純粋エホバの証人一世ネコスキーさんのブログがきっかけで
http://ameblo.jp/aalpp47hinelily/entry-12215164689.html
少しブログを更新しようと思っていました。
「ネコでもわかる 西暦前607年の主張の間違い」と題して
「ネコでもわかる」シリーズを書こうと思っていたんですが
まとめて書く時間がないのでどうしようと思っていました。
ちなみに「ネコでもわかる」というのは
むかし流行った「サルでもわかる」シリーズをもじったものです。
「サルでもわかる」とは はてなキーワード によると
「バカでもわかるという表現をオブラートに包んで言った表現」
だそうです。
そうこうしていたら以下のブログで「エホバの証人のためのギデアレ考古学①~西暦前607年は論理的にあり得るか」というシリーズが出ていて
http://akimoto.tea-nifty.com/ebi/2016/11/607-5601.html
綺麗にまとめられていたので、とりあえずそちらを紹介しておきます。
気が向いたら「ネコでもわかる 西暦前607年の主張の間違い」を
自分も書こうかなとは思います。
そしたら今度はネコスキーさんは
「エホバの証人だけが救われて、その他の人々はすべて滅ぼされる」という主張は背教者のねじくれた嘘だ言い始めました。
http://ameblo.jp/aalpp47hinelily/entry-12216930893.html
読んでみると、
単にエホバの証人でも隠れて罪を行なっている人は滅ぼされるのだから
エホバの証人だけが救われるわけじゃない、という全く論点すり替えの話になっていました。
エホバの証人の選民思想について問題視される場合、
エホバの証人の全員が救われるかどうかの話ではないことは常識的な人は文脈でわかるはずです。
むしろエホバの証人以外の人口の99%以上を大人も子供もエホバが「まもなく」抹殺するという思想の問題を取り上げているのです。
ネコスキーさんのブログは エホバの証人のおバカな部分を凝縮した感じのわかりやすさがあって好きなんですが、平均的なエホバの証人の大半が迷惑してるんじゃないかなと思ったりもします。
「エホバの証人以外がすべて滅ぼされるか」についての協会の公式見解については
他のページに公式見解の引用なども出ているので、それもご覧になれば単にネコスキーさんの「舌がねじれている」だけだということが理解できると思います。
http://ameblo.jp/wt-nihonshibu/entry-12217023446.html
こうしてリンクを紹介してると
特に付け加える点がなくなるわけですが
今回書いておきたいと思ったのはエホバの証人の心理的な部分についてです。
ネコスキーさんの様子を見ると
自分でも論理のすり替えを行っているという意識がないように思います。
これは、エホバの証人公式サイト jw.org を見てもそう思うときがあります。
例えば「エホバの証人を辞めることはできますか - jw.org」を見ると
論理のすり替えが顕著です。
エホバの証人の教理を問題にする人は脱会届を受理するかどうかを問題にはしていません。
むしろエホバの証人が脱会して「辞める」人を集団で無視する、あるいは避ける(忌避)ことを強要していることを問題にしています。
ところが上記の公式ページを見ると
いかにも気軽にエホバの証人を辞めれるかのような書きっぷりをしていて、
どこにも問題となっている「辞めた人への忌避」という制裁、
しかも家族もその制裁に加わる問題について言及していません。
そしてページの下のほうの「もっと調べる」というリンクには「エホバの証人ではなくなった人を避けますか」というページが紹介されていて、エホバの証人をやめても忌避していないかのような説明のページに飛ぶようになっています。
エホバの証人の実情を知っている人は、こうしたエホバの証人の態度には義憤を感じることと思います。いったいどういうつもりなんだろう、小手先で一部の人をだましても実情を知っている大半の人を怒らせるような騙し技を平気で行えるのはなぜなんだろう、という気持ちになると思います。
エホバの証人にときどき見られる堂々とした逃げテクニックは
問題を直視することで生じる良心の危機を回避するための本能的なものなのかなとも感じます。
ネコスキーさんと対話を試みようとしても、まずまともな返信はきません。
それに対して「やつらは背教者だ」という返事。
この「背教者」というワードですが
ほとんど戦時下に「非国民」というほとんど意味をなさない単語を
使って感情に訴えてきた状況に似ています。
背教者という言葉はそのコミュニティにいなければほとんど意味をなさない言葉なわけですが、論理で勝てないときは「背教者」という言葉を使えば、何か効き目があるとでも思っているかのようです。
「エホバの証人だけが救われて、その他の人々はすべて滅ぼされる」という見解について、あるいは「選民意識」否定についてですが、実はネコスキーさんのような論調をするエホバの証人に出くわすのは記憶にあるだけでも3回はあります。
なのでエホバの証人にはある程度共通している心理が関係していると思います。
まず、エホバの証人は「謙遜さ」や「温和さ」を重視している点があります。
布教活動で出会う人にもひときわ「謙遜な態度」や「温和な態度」を示すよう努力しています。
相手に対していろんな点を褒めたりもします。心にもない点でも努力してほめたりします。
表面的な謙遜な態度でも、それを続けていると本気で自分は「謙遜」であると思えてくると思います。そんな中、「あなたたちは選民意識がある」と指摘されると、反射的に否定したくもなるのだと思います。「選民意識=傲慢な態度」という構図が頭に浮かび、エホバの証人は謙遜な態度を示している、と感じて否定するのだと思うのです。
「エホバの証人だけが救われて、その他の人々はすべて滅ぼされる」というフレーズに関して、なぜこのフレーズから「エホバの証人だからといって誰でも救われるわけではない」という別次元の話にすり替えられるのかを考えてみます。
エホバの証人は自分たちだけが救われるからと言って、傲慢になっているわけではない、自分たちも救いが保証されているわけでなく、謙虚な気持ちなんだ、という思いの表れかなと考えました。
そして、いつの間にか話が「エホバの証人が全員救われるなんて考えてない。わたしは謙遜だ」という結論に落ち着こうとするのかと思うのです。
エホバの証人は一般の人の中にとても高尚な人たちがいることを知っているはずです。多くのエホバの証人は、中心で活躍する人たちを除けば、自己のアイデンティティの確立に難しさを感じる人も多いのではないかと思います。
それゆえにも2016地区大会で上演されたいわゆる「大患難ビデオ」のようなものが必要になります。エホバの証人はまもなく「自分たちだけが特別な迫害にあう」ことを想像しています。
なぜか一般市民はみんな凶暴になりエホバの証人だけを攻撃するというシナリオです。
彼らの良心は、一般の善良な市民がハルマゲドンで抹殺されるという構図を受け付けないのです。
これは今に始まったことではありません。以前にエホバの証人の長老とこの問題について話をしたときに、やはりその人は本気で国際連合が宗教を滅ぼし(その後なぜか国際連合ではなく)その他大勢の軍勢がエホバの証人をターゲットにして迫害してくるというシナリオを語っていました。そのシナリオを説明するときのその人はなぜか満足気でした。
と まとまりのない話になってしまいましたが
思ったときに思ったことを書いておかないと
放置になってしまうので
ひさしぶりですが考えた点を投稿します。