「信仰の人」と聞いてどんなイメージをもちますか?
私欲を捨てて神に従う人というイメージでしょうか。
おそらくクリスチャンが見倣うべき模範という印象があると思います。
「信仰の人」と言うと
アブラハムを思い出すかもしれません。
しかし聖書が描写しているアブラハムは本当に
わたしたちが考えるような「信仰の人」なのでしょうか?
思い出してください。
アブラハムが故郷を離れて約束の地を目指したとき。
彼は「アブラハムよ。わたしが示す土地に行きなさい。
そうすればあなたの子孫を繁栄させましょう」
という神からの直接の声を聞いたのです!
神からの直接の声を聞いてそれを無視する人がいますか?
(ちなみに聖書学者の中にはアブラハムが実在したという
証拠が欠落しており,イスラエル国民のアイデンティティを
確立するための民間伝承であると考える人もいます。
しかし,ここではアブラハムの物語がすべて本物で
あるということを前提に書きます)
アブラハムが息子を焼燔の犠牲にささげようとしたとき
やはり彼は神からの直接の声を聞いたとされています。
つまり 現代のクリスチャンが想定するような
「信仰」とは異質のものであるということです。
大ちゃんのお父さんは「我が子を捧げよ」という
神からの声を聞いたでしょうか?
アブラハムの「信仰」とはかなり違うものなのです。
皮肉ですが,ある意味では本当の「信仰」です。
この種の信仰に関するわたしの考えは
ehoba.netの「信仰の倫理」の中で書いてますのでそちらもご覧ください。
話を「大ちゃん事件」に戻します。
「説得」の本には事件後に大ちゃんのお父さんが語った言葉が載せられています。
「説得」 5章3 p120
「そうですね、ノアの箱舟なんかについては、兄弟と同じようでしたね。そういっぱい引っ掛かったわけじゃないですけどね。まあでも究極的には神の存在ということでしたねえ。私は神の存在を実感することがね、信仰をもつためには絶対必要だと思っていました。それでね、伝道に早く出て、奉仕することによってね、喜びを感じて神に少しでも近づきたい、と思ってたんですよね。
ただ私の場合、たまたまそういう時期にうちの息子の事故があったので…」
…
「まあ、あと、私が祈りで必ず入れているのは、息子とね、復活して会うこと。それをね、やっぱり…、一番…。私達家族は、バプテスマを受けてから今まで、頑張ってねえ…。やっぱり、息子に対して、あるいは息子自身、ああいう形で信仰を表明できたので・・・。
『最後まで耐え忍んだものが救われる』っていう聖句がありますから。ここでくじけたらねえ、なんのためか、ということになりますからねえ。もう本当に、エホバを信じてやっていこう、っていう気持ちが、強いですねえ」
お父さんも悩んでいた様子が伝わります。
信仰に関しても悩んでいました。
しかし悩んでいても前に進めないので
とにかく伝道者になって前に進もうと考えました。
そんなときに,お父さんは突然大きな決断を迫られました。
この橋を渡るか渡らないか。生涯をかけた賭けです。
アブラハムのように神の声を聞いたわけではありません。
純粋に「信仰」の賭けです。
そしてお父さんは息子を捧げました。
その後のお父さんの言葉。これは正直な気持ちだと思います。
「ここでくじけたらねえ、なんのためか、ということになりますからねえ。もう本当に、エホバを信じてやっていこう、っていう気持ちが、強いですねえ」
もちろんお父さんは単なる利己心で息子をささげたわけではありません。
しかし,お父さんの壮大なる賭けのために10歳の子供の命を捧げる大義はないと思います。
現実的にいうと,お父さんはたまたま息子の命をかけて
壮大なる賭けを行うように迫られてしまったのでしょう。
ですから一番問題なのは
悩んでいたお父さんに壮大なる賭けを迫るような組織のシステムです。
話を冒頭に述べた「信仰の人」に戻します。
ヘブライ11章には「信仰の人」の物語の一覧が出ています。
「信仰によって,ノアは,まだ見ていない事柄について神の警告を与えられた後,敬虔な恐れを示し,自分の家の者たちを救うために箱船を建造しました。」
神からの直接の声を聞いて信じない人がいるでしょうか?
そしてそれを無視する人がいるでしょうか?
ヘブライ11章には,大勢の「信仰の人」が描かれています。
しかし,誰一人として組織の聖書解釈を信じて命をささげた人のことは書かれていません。
そこに出ているのは,神からの直接の声を受けたと聖書が描写している例ばかりです。
ちなみに
「信仰の人」に対する良いイメージというのは
どの宗教団体の中でも共通してもっています。
モルモンはモルモンの教理に対しての信仰が高く評価されます。
イスラムではイスラムの教えに絶対的な信仰をもつ人が立派な人とみなされます。
そのようなイメージを作ることで得するのは誰でしょうか?
結局のところ宗教組織を守る点に一番貢献しているように思えます。
と書いているうちに
どんどん話が脱線していきました。
読み返してみると上の大ちゃんのお父さんの言葉の中にも
「神への愛」という言葉もないですね。
今考えてみたら主題を「神への愛と隠れた利己心」とするよりも
「神への信仰と隠れた利己心」にすべきだったと思います。
話がまとまらなかったので,また次回に続けます。
つづく・・・