神への愛と隠れた利己心(3) | エホバの証人研究(ブログ)

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今回少し視点を変えて書きます。

今回問題にしたいのは独善性です。

まず組織の中に見える独善性について一つ指摘します。


塔12 4/15 8-12ページ
状況によっては,排斥される場合もあります。与えられる懲らしめは,「それによって訓練された人」にとって,霊的な回復の助けとなってきました。(ヘブ 12:11)では,親族や親友が排斥された場合はどうですか。わたしたちの忠節が試されます。排斥された人にではなく,神に忠節を保つでしょうか。エホバは,どんな排斥者とも接触を持ってはならないという命令にわたしたちが従うかどうか,注意深く見ておられます。―コリント第一 5:11-13を読む。
排斥された親族と交わってはならない,というエホバの命令を家族が忠節に守るなら,どんな良い結果になるでしょうか。その点を示す一つの経験を取り上げましょう。



エホバの証人にとっては見慣れた文章でしょうか?
何の違和感もなく受け入れるのだと思います。

親族の忌避の根拠らしい2つの聖句が書かれてます。

ヘブライ12:11の文脈を見ると「父親が数日の間懲らしめる」ことを述べています。

コリント第一5:11-13は兄弟と呼ばれることを望みながら淫行を続ける人のことが語られています。ちなみにパウロが念頭に置いていたのは「自分の父の妻」と関係を持ち続けている人です。

どの聖句もエホバの証人を辞めた家族を一生の間忌避し続けることを正当化できるものではなりません。

しかし!

ものみの塔はこれらの聖句を丁寧に論じることもなく
「排斥された親族と交わってはならない,というエホバの命令」と書いています。

わたしはこのような文章を読むときに
組織が自分たちの信条や習慣を正当化するときに
(しかも反論が十分ありそうな分野にかぎって)
「エホバ」の名を借りて正当化しているように見えます。

とても厳しい意見を言うならば

組織は証人たちの一番弱いところを知っていて
そこをうまく利用しています。

つまり組織は,エホバ or サタン とか
エホバ or 人間 という展開で推論させると
証人たちが何かスイッチが入ったかのように自分で考えるのをやめてしまうという特性を知っているのです。

だからこそ,排斥の問題は「親族への忠節 or エホバへの忠節」という構図で証人たちに考えさせようとしているように思えます。

組織のこの手のやり方を見ると本当の意味での神への愛が感じられません。
神への愛を唱えながら実は主役が自分たちになっているということはないでしょうか?

本当に神が主役になっているのであれば個々のクリスチャンと神との間の関係,誰も踏み込むべきではない関係が強調されているはずです。



デンマークの映画の中に興味深い場面がありました。

王国会館で行われた葬儀の場面。
亡くなった若者の親友だったサラはその葬儀に参列します。
サラは排斥された立場でしたが王国会館の最前列に堂々と座ります。

葬儀の後,サラの父親は,サラが葬式に来たことで家族が迷惑したと言い。
続いて「君がしたことは利己的なことだ」と述べます。

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お父さんが友人の葬儀に出た娘を「利己的」と表現したのはなぜでしょう?

JWの独特の戒律からして,排斥された人が葬儀に出席することによって家族は困惑します。どのように対面してよいのかあたふたしてしまうかもしれませんし,自分たちが冷淡な対応をすることによって自分たちが傷つくと感じるのでしょう。

この後のやり取りも興味深いのですが長くなるので省略します。

そしてお父さんの最後の言葉。
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この「悔い改めれば家族になれるんだ」という考えには何が含まれているのでしょうか。

表面上はサラの男女関係の問題のように思えるかもしれません。

しかし実際に突き詰めていくとサラの罪は
「組織に戻ってこないという罪」なのです。

JWの教理からすると
一度バプテスマを受けた人間は一生 ものみの塔協会に従う必要があり
どんな疑問を持つようになろうと家族との関係を復旧させるには
組織の是認による許しを得ることが必要です。

組織はこの戒律によって
どれだけの家族がおかしなことになるか考えているのでしょうか?

子どもが関係した輸血の問題もそうです。

組織は輸血のことを「レイプされるようなものだ」という表現を使います。

1982年 イタリアで幼児の適切な治療を妨害したJW両親が殺人罪を言い渡されました。(目83 1/22 25)
後に重刑は情状酌量されて3年半後には釈放されます。
しかし無関係な第二子がいなければもっと長く拘留されていたかもしれません。

1989年にはフロリダで乳児に対する輸血処置を避けるためJWの親が乳児を連れて逃げ回るという事件が起きました(目89 10/22)

それは彼らにしてみたら当然のことです。
なにしろ赤ちゃんが「レイプ」されそうになってるのですから!!

そして1992年になり子供の治療に関して
輸血を許可しているのではないが(輸血の可能性のある)治療を許可する(宣 92/9)
という見解を王国宣教を通じて出してきました。

輸血を許可するわけではないが治療を許可する???

まったく意味がわかりません。

文面を見てください。

「血を用いないという絶対的な保証を与えることは法律上許されないと感じている医師を見つけた場合は,どうしたらよいでしょうか。それでも,その医師は,今回も問題はないと思うと言っています。あなたはそれが最善の選択であると結論するかもしれません。こうした状況のもとでは,治療を進める許可を与えることができると決断することもできます。とはいえ,子供のための治療を許可するとはいっても,輸血を許可しているのではないという点をはっきり伝えてください。その点をはっきり伝えることは,あなたの決定が妥協とみなされることを避けるために,あなたが果たさなければならない責任なのです。」(宣 92/9)

この曖昧で矛盾した文面に,実際に子供の治療に直面している親たちがどれだけ振り回されてきたでしょうか?

わたしは怒りを感じます。

本当に輸血がレイプなら病院の血液バックを引きちぎって戦えばいいのです。
イタリアの夫婦のように殺人罪で服役すればよいのです。

「(輸血されるかもしれない)子供のための治療を許可するとはいっても,輸血を許可しているのではないという点をはっきり伝えてください。」

なんですか?それ。
輸血は許可しないけど輸血されるかもしれない治療は許可するとはっきり伝える?

理由はこれです。

「その点をはっきり伝えることは,あなたの決定が妥協とみなされることを避けるために」

まったく自己中です!!!


また少し話が脱線してきました。

突き詰めていくと やっぱり非道なのは組織です。



お知らせ:
上記のデンマーク映画に関連したインタビューの論評をUPしました。
http://www.jwstudy.com/docs/newsreview_denmark_tabita/