長老が勉強する”司法”を少し見てみましょう。
以下は人を排斥にするかどうかを検討する際の”証拠”について扱っている部分です。
単元5(ロ) 111ページ
どのような証拠を受け入れることができますか。
妊娠,あるいは,告発されている人が不穏当な状況で異性と一
緒に同じ家(あるいは同性愛者として知られている人と同じ家)
に一晩中とどまったという(少なくとも二人の証人によって証
明できる)証拠などのような,強力な状況証拠は受け入れること
ができます。
「あなた方自身と群れのすべてに注意を払いなさい」 p.111
Strong circumstantial evidence, such as pregnancy or evi-
dence (testified to by at least two witnesses) that the
accused stayed all night in the same house with a person of
the opposite sex (or in the same house with a known
homosexual ) under improper circumstances, is acceptable.
「妊娠,あるいは・・・」
強力な”状況証拠”として二つの例を挙げているのですが、その一つがなぜか「妊娠」。
『処女なのに妊娠してしまった』という主張があるので、わざわざ書かれているのでしょうか。
「同性愛者として知られている人と同じ家に一晩中とどまった」
これが妊娠と同列に置かれる”証拠”になってしまうんですね。
同性愛者と同じ家に一晩中いることが性交が行われた証拠だとするのは無理があると思います。妊娠と同列に置く意味がわかりませんでした。
(同じ家に一晩中とどまったことを)
「少なくとも二人の証人によって証明できる」
この文脈で、なぜそこにこだわるのかな・・・
感想:
独特な”聖書的”感覚を学んでいくと、逆に常識的考えを失っていくような気がします。
児童虐待の訴えと、大人同士が一晩同じ家にとどまったという訴えが同じもののように扱われてしまう土壌がここにあるような気がしました。