ダンスをずっと踊っていると、いつしか身体の奥の方で様々な音楽や言葉がフーガのように結びついたり離れたりしながら大きな波を形成しようとしているのではないかと妄想することがあって、ドゥルーズが地下茎について書いているのを読んだとき感じたのは、その妄想と似た蠢き感覚だったのだが、いま取り組んでいる舞台の準備のなかで、なぜか無性にその妄想が再燃している。ピアニスト・作曲家の大南匠さんから、久しぶりに何かやらないかと声をかけていただいてスタートした公演『ひ び き を め ぐ る------ 音と身体のための〈連 句 雑 俎〉 頌』のことだ。
新年1月11日(日)に長野市芸術館で開催されるこの公演では、ダンサーとして踊るだけでなくコンセプトはじめ色々な共同作業をさせていただいているが、火花のような一回性というか、再現を前提としない、特別に現場性の強いステージになる予感がする。役割として、大南さんは音楽とプロデュース、僕はダンスと演出ということになるが、共同作業は20年ぶり、共演となると26年ぶり、しかしそんな感じがまるでなく、氏と続けていた様々な作業や思考がここに来て深く響き始めているような感触がある。
独立したダンス公演を始めたころに沢山の作業を協働したが、氏とは何かを作るために出会ったのではなく出会うことによって何かを作ることになったのではないかと思う、これは僕にとっては大事なことで、ふりかえれば、氏とおこなっていた作業には主として二つのタイプがあって作業プロセスがかなり異なっていたのを思い出す。ひとつは僕のソロ作品に作曲や演奏の依頼をするもの、もうひとつは双方が共同で計画して内容を考えてゆくものでデュオワークと呼んでいた。今回の公演でもデュオという言葉を冠している。これは二人で楽器を弾いたり二人で踊ったりするときに使う言葉だから、ダンスと音楽でデュオという表現をするのは珍しいのだけれど、そう呼んできて今またそう呼ぶということには、やはり大事な意味があるのだと思う。他には、氏が演奏会をするときにダンサーとしてではなく演出家としてお手伝いさせていただいたことも何度かあるが、それらが実に別の作業としての独立感がありながら、根の方では一貫して連続する知性を織っている感があり、このメリハリは誰とでもできることではない気がする。僕の感覚と大南さんの感覚のあいだでは、繋げたり結びつけたりだけではなく、パッと切断ができる感じもあるのが特異点かもしれない。異なる作業同士がまた何らかの相互作用を果たして次の作業につながってきた感じもある。それらの経過も含め、氏との作業の底に流れている連続感や対話感を、1月公演の稽古を進めたいと思っている。(公演の会期までにいくつか具体的な作品の記憶もいくつか書けたらと思う)
____________________________________________________
櫻井郁也によるダンス公演の情報や記録を公開しております。
作品制作中に記されたテキストや写真なども掲載しておりますので、ぜひ、ご覧ください。
★NEXT PERFORMANCE ★
2026年1/11(日)
大南匠(Pf,Org)×櫻井郁也(Dance)デュオ公演
「ひびきをめぐる---- 音と身体のための〈連 句 雑 俎〉 頌』
基礎から創作まで、色々な稽古を楽しめます。
舞踏やコンテンポラリーダンスに興味ある方は、ぜひ!

