何週間かたつが、日本ではこれが最後の劇場上映になると聞いて、ルキノ・ヴィスコンティの映画『山猫』を観に行った。個人的に、とても大切な映画だった。

最新の技術で修復され、公開当時と同様に35ミリフィルムで上映された。フレームの隅っこがほんの少しほの暗く見える。ロールチェンジのマークが画面上部にちらりと見える。それらが、いま観ているのは影絵なのだ、と、さりげなくささやいているように、僕は感じる。豪華絢爛で、圧倒的に深い文学世界で、しかしそれは同時に、はかない影絵で、、、。

初めてこの映画を観たときは小学生だった。観た、というより両親が観ている横に、居た。クライマックスの舞踏会のシーンで踊られる音楽が耳に残って、好きになってしまった。男女が手をとり、すこし微笑し、ピョコンと一緒に小さくジャンプする。そんな、素朴で可愛らしいダンスの伴奏音楽だ。跳ねるような、チャーミングなリズムだが、シシリー風というのか、メロディが少し切ない。あの音楽は何だったのだろう、あの音楽の鳴っていたあの映画は何だったのだろうと、ずっと思っていた。

高校生の頃、ヴィスコンティがやたら上映された。片っ端から観たなかに、あの舞曲が鳴った。この映画だった。あれから何度目になるのか、何年ぶりになるのか、思い出せない。時間がたっている。それが、うそのようだった。一番最初の眩しさから、一番最後のあの暗闇まで、不思議なくらいにおぼえていた。おぼえていながら、いや、おぼえているからこそ胸の奥まで全てが押し寄せてくるようだった。全てというのは、人の呼吸で、美貌で、苦悩で、光線で、奥深い夜で、渇いた地面の亀裂で、ドレスと宝石で、汗で、マリアに捧げる祈りで、革命で、恋で、朽ちて風化してゆくもので、衰えるもので、それから、それから、という、それら全部が「すべて」というほかにもはや思いつかない全てを建築し奏でているのだった。

何回も観る。つまり、長く付合っているうちに、あるとき、グッと押し寄せてくるものがある。映画のみならず、良いものはそういう事なのかもしれない。

つらいことや嬉しい事を思い出しながら観る。そういうことが、ほんとうに出来る、日々が愛おしくなる映画だと思った。ヴィスコンティのなかでは、ナチズムの根っこを描いた『地獄に堕ちた勇者ども』のそこはかとない恐ろしさと一対の作品であるように、なぜか感じられる。美しく愛おしく、しかし、、、。黄昏時のような美しい時間が流れ、その時間に流されながら、終わってほしくないと思っていた。この映画にスクリーンで再会できたのは、ちょっとしあわせなことだった。