木は、草は、地の底の、沈黙を、呼吸し、鮮やかな色彩と生気にして空間に散りばめてゆく。それで、世界が少し明るくなるのでしょうか。

花が咲くというのは、古い何かが燃え尽きて新しい何かに存在を託す瞬間でもあるのでしょうから、そういう哀しみもあるから、命が入れ替わるときの何かが心に入ってきて、ハッとさせられるのでしょうか。

花が明るく力強いのは、生死の仕組みがそこからこぼれてくるからなのでしょうか。

あるいは、命が命をけずるときに光を発する、その瞬間が花になるのでしょうか。

毎年毎年、花に対する吐息やら感情の高ぶりが増えてゆく、揺さぶられます。

花は、存在の宣言のように思えます。

 

これは昨春ここに書いた文章の一部なのですが、あらためて同じことを今また思っています。そして、もうひとつ今年になって強く思うのは、花を見るとき、じつは、花からも見られているのではないか、ということです。私と花は、ともに命です。命と命は互いに見つめ合っているのではないだろうか、どこかで互いに何かを語りかけ合っているのではないかと、なんだか思えて仕方がない。春になるたび、花を見る。春になるたび、花がこちらを見つめている。たとえばそのような、四季が与えてくれる何かが、最近なぜか、えらく胸に刺さります。稽古するときも、舞台で踊るときも、なぜか、、、。

(上記全文

 

 

 

 

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