西荻フリークラス記録より。1/8の稽古は音楽に身をゆだねること、そして一定の時間の流れを途切れなく踊り続ける経験をした。対して1/22の稽古では、詩の音読を聴きつつ踊るという体験をしていただいた。気持を確かめながら丁寧に動く稽古でもあったかと思う。言葉に交わろうとしてゆくようでもあったし、言葉に溶け入ろうとしているようでもあった。
喋る言葉、語る言葉、記す言葉、コトバと言ってもいろいろだが、詩の言葉はとりわけ一つ一つの音にまで深く問いながら書かれている。深い、そう思うことが多い。この日その場を共に過ごしながら思ったのは、言葉もまた命を支える食物なのかもしれないということだった。言葉を深く聴くとき、音や呼吸や文字やイメージや喜び哀しみが、栄養素のように身に染み込んでゆくように思えるのだった。
聴き、聴きながら踊り、話を交わし、からだをほぐしなおし、いくつかのエチュードを経て、ふたたび聴き、ふたたび踊り、ふたたび、と繰り返すうち、言葉と体の関係が次第に接近してゆくのを目の当たりにした。
踊りが鮮明になるにつれ、休憩時に発される感想の言葉にも焦点が定まってゆくのは面白かった。言葉から身体に熱や光のようなものが入ってくるのだろうか。
じっさい、言葉は火になる、言葉は氷にもなる。人の心を燃やしもするし冷やしもする。その力が、脳や神経を通じて、血や肉や骨にも確実に作用するのだろう。そして力は身を波打たせリズムになってゆくのかもしれない。
詩にひそんでいる音楽が、ダンスを通じて現れる気がしてならない。人が関わるあらゆるものごとから踊りは沸き起こると思うが、なかでも、ことば、は踊りに深い深い縁をもっていると僕は思っている。
踊りの発露と発語は、どこか似ている気がしてならない。詩は言葉によって書かれるが、その言葉はときに奏でることばであるし、その言葉はときに鼓動する言葉と思う。
詩と踊りには、さらには言葉と肉体には、特別な関係がひそんであるのではないかとも感じている。


stage ダンス公演情報
新作公演=2019年4月6〜7日:東京(櫻井郁也ダンスソロ新作)

lesson ダンス教室
コンテンポラリーダンス、基礎トレーニング、オイリュトミー