rehearsal photo:Sakurai Ikuya"SWAN"


稽古の合間、ハンナ・アレントの本をながめていたが、
やはり、この人の言葉は僕らにとってやはり重要だ、と思うのだった。

その言葉のいくつかは、繰り返し思い出して、思い出すたび強く共感してしまう。
例えば、
「犯された最大の悪は、誰でもない人によって、すなわち人格であることを拒んだ人によって実行された」
という言葉の、また例えば、
「政治においては服従と支持は同じだ。」
という言葉の存在感は、現在においては、とても重大な意味をもっていると思う。
いづれも『エルサレムのアイヒマン』のなかにある一言だが、
この激しい言葉は、より新しい哲学者シジェクの
「何もしないことは中立的ではなく、意味を持っている。それは既存の支配関係に「はい」と言っている、ということだ」
という言葉にも通じる気がする。
いづれも、その言葉から、僕は僕自身の行動や考えの意味をもういちど見つめ直さざるを得ない気持になる。
そして、ものごとについて
「答えを決めつけたり」「あきらめたり」「放置してしまったり」することの恐ろしさを連想してしまう。

この人の文章を読むたびに感じるのは、語る、という態度だ。書くことによって、彼女は語っていると思うのだ。
言葉にはさまざまな存在の仕方があると思うが、語る、というのは行動としての言葉だ。
私にいったい何が出来るのだろうかと悩むことから、私は言葉を語ることができる、という地点への踏み出しはすごいことだと思う、
この人の言葉には、そのような決意・勇気・志が通っていると思う。

語るというのは熱でもあると思うし、語ることは行動でもあると思う。
小さな行動でも積み重なれば大きくなってゆく。
小さな声でも語り続ければ力に変わる。
しかし、小さなあきらめでも繰り返していると底なしの絶望になっている、
その恐ろしさを、僕らはいま予感しているようにも思う。

また例えば、「人が生まれてきたのは、死ぬためではなく、始めるためである。(人間の条件)」
という言葉に対しては僕自身とても心をつかまれる。
これは僕自身では踊りともむすびつく言葉だ。
実際、踊るというのは「始めることの連続」なのではないかと、このごろすごく思っている。

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櫻井郁也ダンスソロ:公演情報