踊ることは響きと深く関わっていると思う。
響きは聴くことと、
聴くことは、受容することと関わっていると思う。
静けさや沈黙のなかでなにかを聴きとろうとすることも含めてだ。

受容は身体を変える。
なにかを受け容れるとき、私は私自身をやわらかくしようとするからだ。

僕の場合、見たもの以上にきいた音や声の響きから身体の感覚がとても育てられていると思う。
きくことは、聴覚によってさまざまなものごとに触れることでもある。

鼓膜を通じて、知らなかった心やチカラが、身体に入ってくる。
たとえば声もそうだ。
はげしい声、やさしい声、おそろしい声、うつろな声、あかい声、、、
人は、人の声をいつも聴いている。
声といっしょに生きている。





声の記憶はずいぶんな力を体内で発しているに違いないと思う。
記憶に強い声はたくさんある。

身に近い人の声いがいに、誰もが知るような人から思い出してみると、
先に亡くなられた石牟道子さんの声はすごく特別だった。
テレビを通じてだったけれど、あまりに温かく、しんしんと響く声なので、
目を閉じてただただ聴いていた。聴いていたくなる声だった。
思い出して、またその記憶を聴くのだった。

それからアレン・ギンズバーグの声。大詩人である。
ご自身によるリーディングの会だったが柔らかで親密で、おおきい。
大声という意味じゃあない、小声でも「おおきい」のだ。
自然と胸がどきどきした。
ギンズバーグのカディッシュは、冷たい声には似合わない。
詩人の声に感激したのは一度ではないが、
ギンズバーグの声はなぜか泣けるような温度だった。

美術家のヨゼフ・ボイスの声もおぼえていて、脳みそをまだ揺する。
コヨーテというパフォーマンスだったが、あまりにも強烈で忘れることは無いと思う。
白南準がピアノで、ヨゼフ・ボイスはずっとずっと吠え鳴き泣き叫びと言えば良いのだろうか、
いや「声」としか形容できない声を全身全霊で発し続けたのだった。
原始時代が呼び出されたように思えた。
全ての言葉を解体するみたいだった。
同時に、新たな言葉つまり知らない言葉が、
「形成され」る瞬間を体験しているようだった。
つまり、声それ自体が詩だった。
コトバというものが生み出された時代が、かつてあったと思う。
そこに、意識が潜行してゆくような気分を、ヨゼフ・ボイスの声はさそうのだった。

声は言葉を生み出そうとしながら空気や時間と絡まり、
声は声を発する人の心を他の人に滲ませてゆくように思う。

声にかこまれている。
声をつうじて、さまざまな心を聴いている。


ダンスノート

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櫻井郁也ダンスソロ公演情報
Sakurai Ikuya dance solo 
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