もうすぐ8時15分だ。
8月6日があり、8月9日があり、8月15日があり、という、8月になると必ず避けられない日にちの重さがあり、これらの日にちからは東京の大阪の私たちの家族に直結した火の記憶がつらなっているように感じて仕方が無い。私の足は私の皮膚は何も知らない、しかし知らないという言葉はほんとうにふさわしいだろうか、とも考える。たとえば際限なく繰り返された祖母の空襲の日についての火についての言葉から、あるいは亡父の突発的な震えの原因がその日の記憶からであったことから、何か、それは具体的にこういうことだと分析などできない重さと痛さが渾然としたような、暗いかたまりが、やはり自分の深層に沈んでいるような気がしてならない。問いつづける、疑問をもちつづける、どのようなかたちであれ、否応なく背負っているものを、僕らはそう簡単に降ろしてしまうべきではないとも思う。たくさんのことを語る必要があるかないか、わからない。しかし、たとえば今日この6日の8時15分に、そしてわずか三日後の9日の11時02分に、つまり「あの時間」には、せめて黙して手を合わせるという習慣を、とは思う。神さまや仏さまの問題ではなく、人間の問題として個人として祈るだけだが。





写真は過去作『弔いの火ー こどもたちのための70年目の8月9日 ナガサキ』
(2015・8/9 長崎大村・松原小学校運動場、美術=瀧澤潔)


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新作公演
櫻井郁也ダンスソロ:『白鳥』9/29.Sat.~30. Sun. 2018
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