ソロ公演のあと、アンケートやメールやお手紙で、さまざまな言葉をいただいており、本当に感謝しております。

自身では、まだ精神的にも肉体的にも整理がつかないままですが、ご来場された方々からいただいた言葉をひとつひとつ読ませていただきながら、作品について、踊りについて、身体について、再考しはじめています。

ダンスという抽象的なものが誰かの人生や思いや考えに結びついて言葉にしてもらえるのは幸運です。個の感情の通った大切な力。ひとりひとりの言葉、ひとつひとつの言葉にワクワクします。同時に、無言の言葉というものにも気持が膨らんでいきます。

舞台芸術なんて言うけれど、実際は人と人の気持のやり取りですから、舞台の上で完結するような非日常的なものでは済まないないなあと、本当に思います。

ダンスはやはり現場のものですし、いくらたくさんの言葉を通して考えるようにしてはいても、核になるものは圧倒的に身体的な集中力で進んでいきます。

現場で感じ取った観客の方の眼の力や気配、そしていただいた言葉が、そのまま鏡で、励まされたり落胆したりと、これは非常に重要な力になって次回へと架かっていきます。

自作の舞台公演を始めて30年ほどになりますが、その最初の最初から、ずっとそうなのです。「独舞」と言っても、実際には独りでなんか決して踊れるわけがありません。目の前に誰かの姿があり、息がきこえ、というなかで踊る。

観客の方が、作品に現れていた世界を具体的な言葉にして下さることもあり、奇妙かもしれませんが、舞手で主体であるはずの僕自身が、観客の方の誰かから、このようなことが表現されていましたよと教わり、そうだったのか、と納得するようなことが時にあります。

自ら用意した部分を越えて、その場に生じているもの全てから影響を受けながら踊ります。だから予想外のイマジネーションも出るのでしょうし、浅い作為は稽古で定着してあっても本番では不要の気付きを得て、壊れ消えてしまうこともあります。

僕は恐がりだから、ああだこうだと事前にくわしく準備するし、不要なほど沢山の説明をするほうですが、舞台の集中の真空ではそれらは全部破壊されて白紙に還元されますから、はだかんぼうにされてしまって、血や神経にこびりついた潜伏しているものだけが出て来るのかもしれません。

観た人だけが体験した世界がきっとあるのだと思います。