レッスンをしていると、色んなカラダに出会います。色んな人の身体、というより、一つの身体に沢山のカラダが眠っている、というようなことです。
一つの身体に眠っている沢山のカラダ、沢山の可能性。
それらが日によって、あるいは響く音によって、あるいは傾聴される言葉によって、あるいは、、、。
と、様々な瞬間に目覚めて、色んなカラダの姿が場所に現われてくる。
柔らかさと硬さのあいだを、重さと軽さのあいだを、駆け巡りながら、変容してゆく身体。新しく、新しく、、、。
きょうはピアノ演奏とのセッションでした。半分くらいは動きや言葉によるインストラクションでやりますが、あと半分は即興音楽の演奏によって、説明や手本を挟まずにやる、今夜はそれでした。
僕は即興でピアノを弾きながら踊りを誘発するイメージを促してゆくのですが、ピアノから踊りに、あるいは踊りからピアノに、という受け応えのなか、動きと音が互いに互いを刺激し合います。
こんなふうにやってみよう、という前提が互いにないから、感性と感性だけで関わることになる。
直感のまま、衝動のまま、動けるだけ動いて、、、。
そのようななかで、裸というのかしら、ある身体に眠っているカラダがフツフツと熱を帯びて出てくるチャンスがあるようです。また、普段から蓄積されているその人のカラダの現在や感覚の開かれ具合がどのような状態なのかも、つかめるようになってきます。
音と身体のセッションは、ある意味、心身のバロメーターでもあるかもしれません。
そして、時として奔放さが出てくる人もいます。鼓膜の振るえがスイッチになっているように、音と動きの区別がなくなってゆくように、、。
理屈ぬきで、ひたすら音に身体を委ねてゆく、という体験を、繰り返し繰り返しやってゆく。
それはダンスならではの知覚体験の蓄積です。
あるいは脳の呼吸かもしれません。
聴くことから始まる何か、、、。
それはダンスならではの姿勢かもしれません。
ある意味、身体は楽器なのかもしれませんが、それ以上に、身体そのものが実は凍れる音楽なのかもしれません。未だ言葉になる前の言葉が胸の内を駆け巡り身を振るように、音楽もまた、身体の底で誕生を待つ胎児のようにあるのかもしれない。
そんなことを思ってしまう瞬間が、ときに、このレッスンのなかで訪れます。
明日は土曜日。基礎と身体のメンテナンスをやる日です。
レッスン
ステージ
一つの身体に眠っている沢山のカラダ、沢山の可能性。
それらが日によって、あるいは響く音によって、あるいは傾聴される言葉によって、あるいは、、、。
と、様々な瞬間に目覚めて、色んなカラダの姿が場所に現われてくる。
柔らかさと硬さのあいだを、重さと軽さのあいだを、駆け巡りながら、変容してゆく身体。新しく、新しく、、、。
きょうはピアノ演奏とのセッションでした。半分くらいは動きや言葉によるインストラクションでやりますが、あと半分は即興音楽の演奏によって、説明や手本を挟まずにやる、今夜はそれでした。
僕は即興でピアノを弾きながら踊りを誘発するイメージを促してゆくのですが、ピアノから踊りに、あるいは踊りからピアノに、という受け応えのなか、動きと音が互いに互いを刺激し合います。
こんなふうにやってみよう、という前提が互いにないから、感性と感性だけで関わることになる。
直感のまま、衝動のまま、動けるだけ動いて、、、。
そのようななかで、裸というのかしら、ある身体に眠っているカラダがフツフツと熱を帯びて出てくるチャンスがあるようです。また、普段から蓄積されているその人のカラダの現在や感覚の開かれ具合がどのような状態なのかも、つかめるようになってきます。
音と身体のセッションは、ある意味、心身のバロメーターでもあるかもしれません。
そして、時として奔放さが出てくる人もいます。鼓膜の振るえがスイッチになっているように、音と動きの区別がなくなってゆくように、、。
理屈ぬきで、ひたすら音に身体を委ねてゆく、という体験を、繰り返し繰り返しやってゆく。
それはダンスならではの知覚体験の蓄積です。
あるいは脳の呼吸かもしれません。
聴くことから始まる何か、、、。
それはダンスならではの姿勢かもしれません。
ある意味、身体は楽器なのかもしれませんが、それ以上に、身体そのものが実は凍れる音楽なのかもしれません。未だ言葉になる前の言葉が胸の内を駆け巡り身を振るように、音楽もまた、身体の底で誕生を待つ胎児のようにあるのかもしれない。
そんなことを思ってしまう瞬間が、ときに、このレッスンのなかで訪れます。
明日は土曜日。基礎と身体のメンテナンスをやる日です。
レッスン
ステージ