松果体というのが脳にはあって、
これは太古には光の所在を感知する「もう一つの眼」としての機能があったらしい。
地上に開かれ様々な現象を見分ける両の目玉に対して、天空に開かれ光の変化を察知するもう一つの眼が、古い生物にはあって、その働きが松果体という脳の一部に小さく残っているというのだ。それは頭頂眼といって、現在の脊椎動物でも例えばヤツメウナギには、実際にあると知った。
ヤツメウナギなどと言われても、見たことも食したこともないのだから、ここから先は連想と妄想の広がるのみだが、、、。
脳内の中央に位置する松果体:pineal body、それは、非常に小さな内分泌器で、現在の僕らにとっては、睡眠などの生体リズムが調整される、いわゆる体内時計として働いていると言われる。
哲学の分野では、デカルトが松果体の存在を重視して、これを「魂のありか」と呼んだ。 彼は骨肉のみならず精神をも実体と捉えたが、これらを一つの存在に結合するのが松果体と考えたらしい。
また、この松果体は、いわゆる頭頂眼を形成していた器官とも言われていて、頭頂眼とは三畳紀に退化してほとんどの種で消失した「失われた眼」だという。
先のヤツメウナギというやつは、それを失わずして今尚活用しているのだから羨ましい限りだが、もしかしたら、人間にも潜在的にアタマの天辺に「光を見る」という知覚作用が記憶されているのかもしれない。
という妄想が、ダンスの身体にある、垂直への憧れや反抗から、広がってしまう。
重力に身を任せたと思えば飛び立ちたくなる。跳んでいると堕ちたくなる。立っていても、もっと立ちたい。しかし倒れてしまいたくもなり、、、という、狂ったような天邪鬼が体内で暴れるとき、どうやら両眼の水晶体とは別の眼で、地や空を眺めようとしているような感覚が働き始める。
ダンスの稽古で背中に眼をつけよ、だの、足に眼を、だの、やることがあるのだが、実際に出来ることかどうか、とか、イメージの問題とかいう以前に、もっと沢山の眼が欲しい、もっと目覚めてみたい、という衝動が、先祖から受け継がれてあるのかもしれず、実際、凄い、と圧倒される踊り手のダンスには、無数無限の眼を感じることがある。全身が眼になり得るのがダンスの身体、ということなのか。
そのような、眼のほかの眼、というやつの代表格が、もしかしたら、このpineal bodyによる頭頂眼なのではないか、などと妄想してしまうのだ。
僕の眼はすこぶる悪く子どもの頃から日常は駄目なのに何故かダンスに不便はなく、友人に色盲の画家がいるが彼も勘だけで色を塗っているが不便はないと言い見ても特に不自然はない。
どうも眼というのは眼球の機能が100でなくとも、あちこちの知覚が助け合って第二第三の眼をつくってゆくのだろうか。いや、多分そうなのだろう。
そういえば、眼に限らず、と、言い出せば切りがないが、知覚とか認識というのには、広げようと努力すれば広がってゆく、ある種の可能性が保留されてあるのかもしれない。
失われた古代の器官が、深層に眠っているとしても、不思議はない。
ダンスの稽古の面白さには、表現やコミュニケーションのこともさることながら、自らの持てる知覚や認識の巾を、様々な仕方で、そして虚実込み込みで、試し遊ぶ面白さも含まれているように、僕は思えて仕方がない。カラダは、踊りは、なんと広いものなのだろうか。
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これは太古には光の所在を感知する「もう一つの眼」としての機能があったらしい。
地上に開かれ様々な現象を見分ける両の目玉に対して、天空に開かれ光の変化を察知するもう一つの眼が、古い生物にはあって、その働きが松果体という脳の一部に小さく残っているというのだ。それは頭頂眼といって、現在の脊椎動物でも例えばヤツメウナギには、実際にあると知った。
ヤツメウナギなどと言われても、見たことも食したこともないのだから、ここから先は連想と妄想の広がるのみだが、、、。
脳内の中央に位置する松果体:pineal body、それは、非常に小さな内分泌器で、現在の僕らにとっては、睡眠などの生体リズムが調整される、いわゆる体内時計として働いていると言われる。
哲学の分野では、デカルトが松果体の存在を重視して、これを「魂のありか」と呼んだ。 彼は骨肉のみならず精神をも実体と捉えたが、これらを一つの存在に結合するのが松果体と考えたらしい。
また、この松果体は、いわゆる頭頂眼を形成していた器官とも言われていて、頭頂眼とは三畳紀に退化してほとんどの種で消失した「失われた眼」だという。
先のヤツメウナギというやつは、それを失わずして今尚活用しているのだから羨ましい限りだが、もしかしたら、人間にも潜在的にアタマの天辺に「光を見る」という知覚作用が記憶されているのかもしれない。
という妄想が、ダンスの身体にある、垂直への憧れや反抗から、広がってしまう。
重力に身を任せたと思えば飛び立ちたくなる。跳んでいると堕ちたくなる。立っていても、もっと立ちたい。しかし倒れてしまいたくもなり、、、という、狂ったような天邪鬼が体内で暴れるとき、どうやら両眼の水晶体とは別の眼で、地や空を眺めようとしているような感覚が働き始める。
ダンスの稽古で背中に眼をつけよ、だの、足に眼を、だの、やることがあるのだが、実際に出来ることかどうか、とか、イメージの問題とかいう以前に、もっと沢山の眼が欲しい、もっと目覚めてみたい、という衝動が、先祖から受け継がれてあるのかもしれず、実際、凄い、と圧倒される踊り手のダンスには、無数無限の眼を感じることがある。全身が眼になり得るのがダンスの身体、ということなのか。
そのような、眼のほかの眼、というやつの代表格が、もしかしたら、このpineal bodyによる頭頂眼なのではないか、などと妄想してしまうのだ。
僕の眼はすこぶる悪く子どもの頃から日常は駄目なのに何故かダンスに不便はなく、友人に色盲の画家がいるが彼も勘だけで色を塗っているが不便はないと言い見ても特に不自然はない。
どうも眼というのは眼球の機能が100でなくとも、あちこちの知覚が助け合って第二第三の眼をつくってゆくのだろうか。いや、多分そうなのだろう。
そういえば、眼に限らず、と、言い出せば切りがないが、知覚とか認識というのには、広げようと努力すれば広がってゆく、ある種の可能性が保留されてあるのかもしれない。
失われた古代の器官が、深層に眠っているとしても、不思議はない。
ダンスの稽古の面白さには、表現やコミュニケーションのこともさることながら、自らの持てる知覚や認識の巾を、様々な仕方で、そして虚実込み込みで、試し遊ぶ面白さも含まれているように、僕は思えて仕方がない。カラダは、踊りは、なんと広いものなのだろうか。
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