秋の独舞公演から3カ月あまり、練習が次第に進んでいます。
次の舞台のための基礎工事でもありますが、同時にさまざまな身体や感覚を研究する楽しみ感も強く、踊りながら器官や知覚や意識を片っ端から確かめている感覚もあります。
なかでもトレーニングの時間は、リハーサルと別の面白さがあり、人も言葉も音楽も関わらない、非常に一人になれる時間です。
やることがハッキリしているからか、却って頭の中が整理されてゆくような気がしてなりません。
そして、この時間経過からしか作品も舞台も生まれないのも確かです。僕の場合は動いていないと考えも浮かばないのかもしれない。
毎日ただの繰り返しに見えるようですが、外見と違い、やっているカラダのなかでは結構な変動があり、浮き沈みしている。
何かのインタビューでマイク・タイソンが試合に負けた理由をきかれて、練習をしなかったからだよ、と答えたのには妙に納得して、この人は面白いと思いましたが、身体は結局そういうことかもしれません。
身の重さ軽さから気分も変わりますが、やはり運動そのものが、一種の思考内容や想像力にも刺激を与えてくるのでしょうか。
大袈裟にいえば、周囲の見え方や感覚の敏感や鈍感までもが、微かに、ほんの微かにですが、変わっていっているように感じることがあります。
人間の身体というのは丸ごと全部が脳ミソみたいなものなのか、とも思えてきます。
次の舞台のための基礎工事でもありますが、同時にさまざまな身体や感覚を研究する楽しみ感も強く、踊りながら器官や知覚や意識を片っ端から確かめている感覚もあります。
なかでもトレーニングの時間は、リハーサルと別の面白さがあり、人も言葉も音楽も関わらない、非常に一人になれる時間です。
やることがハッキリしているからか、却って頭の中が整理されてゆくような気がしてなりません。
そして、この時間経過からしか作品も舞台も生まれないのも確かです。僕の場合は動いていないと考えも浮かばないのかもしれない。
毎日ただの繰り返しに見えるようですが、外見と違い、やっているカラダのなかでは結構な変動があり、浮き沈みしている。
何かのインタビューでマイク・タイソンが試合に負けた理由をきかれて、練習をしなかったからだよ、と答えたのには妙に納得して、この人は面白いと思いましたが、身体は結局そういうことかもしれません。
身の重さ軽さから気分も変わりますが、やはり運動そのものが、一種の思考内容や想像力にも刺激を与えてくるのでしょうか。
大袈裟にいえば、周囲の見え方や感覚の敏感や鈍感までもが、微かに、ほんの微かにですが、変わっていっているように感じることがあります。
人間の身体というのは丸ごと全部が脳ミソみたいなものなのか、とも思えてきます。