俺の胸の暗い森の奥には何かが棲んでいるのだ。
--ー俺は、俺だ。
と、叫べば、
--ーまだお前は、お前ではない・・・・・・。
と、絶えざる非情な響きのみが返ってくる。
という、埴谷雄高氏が書いたこの「木霊」という詩の始まりに、どきりとします。
一度かぎりの人生というけれど、それは本当だろうか、もしかすると、人間というのは考えようによっては、何度も新しい人生を生きることもできるし、一度も人生らしい人生を生きることができなかったりも、してしまうのではないか。などという思いが、この詩の始まりから、脳裏をかすめるのです。
私というのは、一定年齢までは親や環境や教育から与えられたシナリオを生きているのでしょうが、ある日、これは本当の私なのだろうか、と問う一瞬を境に、そのシナリオを捨てて新しい私を自らの力で生み出そうとする人と、そのシナリオに縛られたままで過ごし続ける人に分かれるような気がします。
母胎から与えられた生は、未だ「私」の誕生以前の、いわば受身の生なのかもしれず、それは自ら自身で創りまた壊しという独立した人間の前段階の、卵のようなものではないだろうか、何年生きた何歳であると言ったところで、果たして人は、まさに「私自身としての私」たる生を生み出し得てあるのだろうか、「私」というものをついに生み出し得ないままに終わる人生、というものも、ままあるのではないだろうか、という、奇妙かもしれませんが、そのような妄想を、この詩の言葉によって炙り出されるような気がするのです。
俺を認めない、ということによって、僕は僕自身のなかから常に私を創造しようとするしかありません。
それは、経験を過信しない、さらに、イマココというものに騙されない、ということでもある気がします。
ワタクシという言葉と同じくらいに、イマ、ココ、というのは、やたら出没する言葉だけど、実はこれ騙されやすい虚構の価値なのではないか、とか、何かしら固定観念の発生点になってしまうものなのではないか、などと思えて仕方がないことがある。現在・此処というものもまた、私というものと同様に、内部から創造しようとするしかない、一種の不在、一種の未知現象なのではないか、という妄想に思い当たるのです。
まだワタクシではない、ワタクシ。
まだイマではない、イマ。
まだココではない、ココ。
たとえば、踊り、という、居ても立っても居られない揺さぶれも、その震源のひとつにはイマの不快とココからの脱獄とワタクシへの懐疑からの沸騰があるのかもしれなくて、それは、たとえば絶えず外側から訪れるある驚きとの接触に加えて、それら三つの言葉がもつ底知れない居心地の悪さからも起きているのかもしれないなあ、と、何故か、思えて仕方がないが、先に触れた詩の始まりを、より見つめるならば、
まだ・・・・・・。
という、わずか二つの文字から訪れる、得体の知れない力に、僕は打たれているのかもしれません。一体それは。